toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2026 古稀のバックパッカー(インドネシア・スラウェシ編)⑩ 雑感・タビの終わりに

  • ブギス族の木造船「ピニシ」(マカッサル観光雑誌より)

 

・インドネシアへのお土産

今回の再訪で、インドネシアの友人にどんなお土産を準備したら良いか悩んだ。食べ物を持っていこうと考えたが、タイと似たものが多いので困った。加工食品だとハラールが気にかかる。添加物に豚のエキス等が入っている場合などがあり、失礼に当たる。要注意。タイの「モントン」というドリアン品種が人気だと言われたが、バックパッカーの僕には荷物になるし飛行機の中で匂いが嫌われる。(ちなみにタイ語でも使われる「ドリアン」はマレー、インドネシア語からきており、ここが原産地だ)

そんな中、インドネシア人がタイで買っている化粧品があると聞いた。

女性用のフェイスパウダーだった。シーチャンというメーカーが販売しており、美白・肌を明るく見せることへの関心を持っているインドネシア女性の最適のお土産だそうだ。よくわからないけどこれに決めた。化粧品もハラール認定が必要。

 

タイからのお土産、フェイスパウダー(シーチャン)

・村の変化と女性達

四半世紀の時の流れ。再訪したタカラール県の4つの農村の風景は、「あまり変わってない」という印象が強かった。都市部のマカッサルには確かに大きなモールができたり、観光客を呼び込もうとロサリービーチなどの開発は進んでいたが、田舎は懐かしい姿を残していた。僕自身が久方ぶりの光景をノスタルジックに見ているからかもしれない。旧知の友人たちと出会い、過去の記憶を結びつけようとしている自分がいる。

マグリブ(日没直後の礼拝)。昼の暑さから解放され、人々が軒先に出てくる。アザーン(礼拝時間の呼びかけ)が流れる。子どもたちや女性もモスクに集まる。そのゆっくりとした祈りが、「何をそんなに急いでるのか?」と言わんばかりに聞こえる。経済発展とイスラムは連動している。

よく見ると、女性たちがつけるジルバブも昔は黒一色だったが、今はカラフルだし、巻き方も変化している。若い世代の服装も、トレンドがあるのだろう。戒律を守りながら、どこか「控えめ」なファッションと感じる。無節操に外の文化を受け入れない。ゲストハウスのプールでも衣類を着て泳いでいる小さな女の子。20−30代の親たちも宗教的な教えに寄り添っている。

仏教国タイでは最近、若者たちは肌の露出が多い。山岳民族の娘さんたちがデニムのホットパンツ姿で村の中を歩いている。水掛けまつりではビキニ姿で街を歩く。経済発展につれて独自の文化を何処かに置き忘れたのではないか。と年寄りは考える。

同じASEANでこんなにも違うのか。

 

・結婚と合計特殊出生率

タイではバンコクから山岳民族の村まで、女性の晩婚率が急速に高まっている。そして合計特殊出生率は最新の情報だと1を切って0.86。日本より低い。僕が知っている高学歴な女性たちは男性と同等に社会進出し、「自分の給与だけで食べていけるし、子供の教育費などを考えると、結婚する気にならない」と口にする。まあ、僕から言わせるとタイはもともと女性が頑張っている社会ベースがあり、釣った魚には餌をやらないいい加減な男性が多い傾向がある。離婚率も高い。女性たちの意識の中には、金銭的優位の男性となら結婚もあるが、自由気ままがいいので独身もありと思っている。スマホで何でもできるような時代が、これを後押ししている感がある。LGBTQという単語もかなり認知されている。当然バンコクのような都会だけではない。チェンライのような地方でもよく耳にする。

インドネシアはどうだろう。ジャカルタなどの都市部では経済的自立とコスト高による晩婚化が進んでいると言われている。田舎では、イスラムが持つ戒律や価値観、さらに家族なつながり強い。4つの村で結婚や子供の数を聞いてみた。

バルガヤ村を訪ねた時、ソソンさんの孫(男)が結婚式を行なっていた。僕が村に最初に訪れた時は、まだ生まれてなかったので25歳以下。やはり、農村部にはまだ、貧困と因習に縛られた早婚傾向があるようだ。イスラム教では、独身主義(禁欲)は美徳とはされていないという。村の中で結婚しない女性はいるかとボントカシ村の女性グループに聞くと、ゆっくり考えている。結婚しないと口で表明する人はいないみたいで、答えが「No」。

インドネシアの統計では合計特殊出生率2.1。人口を維持する水準まで下がっている。

女性グループに聞くと、「子供の数は2−3人が普通。私の親の世代は10人だった」と笑いながら答える。 現金経済の社会となり、子供の数が増えれば、教育費や医療費が増し、生活が苦しくなることを実感している。経済的な判断だという。 中国の一人っ子政策から始まり、タイの避妊促進政策を見てきたが、行政は経済発展のために人口抑制を推進した。しかし、今は自分で子供の数を決定できる時代になっているし、教育と医療がそれを支えている。そのため少子化が進みすぎ、将来の生産年齢人口減や、産業の維持や経済成長が難しくなる問題を抱えるようになった。皮肉なもんだ。

 

・ゴミ問題

  村を歩きながら、気になった点があった。ゴミ問題。ちょうど乾季の終わりなので目立つ。道端にたくさんのゴミが捨ててある。郡長のイッチャンに聞いてみた。「一緒にゴミを拾ったりする活動しているが、一過性の活動になっている。きれいになったすぐ後、夜になるとどこからともなくまたゴミがやって来ている。ごみ収集基地、収集車などの設備が必要だ。しかしこれも住民の協力が必要」と言う。NGOのヌルリンダも地域生活と環境について活動している。「地域内の緑化や清掃をしているが、なかなか意識が変わる運動にならないのよ」。住民への啓蒙はまず第一だという。

25年前もよく言われた。「雨季に入れば、大量の水でゴミが海に流される」多くの人が知っている。しかし、そのゴミは海岸や海洋汚染につながっている。消費経済活動が活発になり、その数は毎年増えている。タイでは少なくなってきたが、「サシェ(Sachet)」と呼ばれる使い切りミニパックがワルン(商店)に並んでる。シャンプーや洗剤、調味料、コーヒーなどが1回〜数回分の小分けにされたプラスチック製の袋のこと。お菓子の袋やサシェがゴミとなって道路にたくさん落ちていた。

 

・ヘイズ(煙害)

約1週間の滞在を終わりタイへの帰国は、シンガポール経由チェンライ行きの飛行機。一週間に一便、スクート航空が運行している便に乗った。朝7時にマカッサルを出て、昼の3時にはチェンライ到着するタイパの良い空路だ。大きな飛行機ではないが満席。機種はエンブラエル E190-E2、ブラジル製。約100席で2×2。トイレが近い僕にとっては使い勝手が良い。エンジン音も静かだ。

スラウェシ島を出発して、カリマンタン島上空。下を見るといくつかの地点で煙が上がっている。パーム油の原料となるアブラヤシ農園(プランテーション)や製紙用の植林地を拡大するため、火を放って森林を伐採・清掃する。泥炭地に一度火がつくと、地上だけでなく地中深くで数ヶ月にわたりくすぶり続ける。これがヘイズ(煙害)だ。帰国したあと、シンガポール、マレーシア、インドネシア、ブルネイで数百万人に呼吸器感染症を起こしているニュースを見た。またマカッサルの友人からも空気が汚れているとメールを受ける。自然資源に頼る経済発展も大事だが、環境問題にどのように取り組むかをすべての人が考える時代になったことだけは確かだ。(おわり)

インドネシアのヘイズ (Sustainable Japanより)

 

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2026 古稀のバックパッカー(インドネシア・スラウェシ編)⑨ 貧困と村落開発について

 
  • マカッサル海峡に沈む夕陽、ビンタン・ガレソンにて
25年前、アルファベットの「K」の形をしたスラウェシ島へのタビは始まった。JICAの貧困対策プロジェクトに参加するためだ。タカラール県の農村、漁村、中山間村、山村の4つの村で住民提案型村落開発の試みに取り組んだ。僕の担当は、現地のFO(フィールドオフィサー)と一緒に「住民による村落開発案件」の申請への道筋をつくることだった。申請案件資金の30%を村人が出し、住民の主体性を意識化させる。それまでタイのNGOで経験してきた貧困支援とは、中身がガラリと違っていた。
なぜ僕がこの島に来たのか、それまで何をしてきたのか、そして何を学んだのか、当時のことを思い出しながら綴ってみた。
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単に住民をサポートするだけでなく、「住民が主役の活動に、行政の職員はどう向き合うべきか」というアプローチ方法や、そのための職員トレーニングがメインだった。村の開発に関わるいろんな立場の人の「考え方そのもの」をこれまでのトップダウンから変革していく試みだ。ちょうどスハルト政権が終わり、地方分権がスタートする激動の時期でもあった。
ここで学んだのは、貧困対策というのは単に住民を「救済する・恵みをあげる」ことではない、ということ。人権や、社会の仕組みをいかに公平にするかという「社会正義」に深く関わる問題なんだ、と強く意識させられた。緊急支援は別としても、モノを配ったり、海外からの資金だけでやるプロジェクトには限界があることを感じていた矢先だった。
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時計の針を少し戻すと、僕は1980年代にタイ北部の山岳少数民族の人たちと一緒に暮らしていた。彼らは第二次世界大戦の後、政治的に不安定だった中国やビルマ(ミャンマー)から、安全を求めてタイ北部に移り住んできた人たちだ。
独自の言語を使い、学校教育を受ける機会もなかったため、自分の年齢すら知らないのが普通だった。人里遠く離れた森を、まるでスーパーマーケットのように上手に利用して暮らしていた。
小さな部族社会は、亜熱帯モンスーン気候からの豊かな恵みを享受し、農産物や料理をごく自然に分け合っていた。「モノやお金」の量ではない、生活の本当の豊かさがそこにはあった。お年寄りから子どもまでみんなに役割があって、お互いに助け合うことで自給自足の暮らしが成り立っていた。
ところが90年代に入ると、タイの経済が急成長し、あんなに遠かった村にも文明の波が押し寄せてくる。治安維持や安全のためという名目で、「タイ」の行政が法律を使って彼らの土地を管理し始めた。
政府の目から見ると、国籍を持たず、ケシ栽培や焼畑農業をする彼らは、「遅れた文化で、法律を知らない厄介者」と映ってしまった。山岳少数民族の人たち自身も、平地のタイ人社会との交流が増えるにつれて、「自分たちは貧しいんだ」と意識するようになり、「タイ人化」するための支援を求めるようになっていった。
 
  • 1980年代、ラフ族の村に泊まり込み、水牛銀行の話し合いをする。ジャンバーを着ている後ろ姿の筆者。まだ30歳だった。
住民たちが抱えるトラブルの多くは、町からやってくる行政官との間で起きていた。特にお金が絡む問題は数え切れないほどだ。麻薬の取り締まりを口実に村人からお金を巻き上げる警察官もいれば、あからさまに賄賂を要求する行政官たちもいた。
当時の地方公務員は、給料だけでは都市部の生活費やインフレについていけず、生活費を補うためにワイロ(小口の汚職)を求めるケースが多く、そのため、村落開発予算のピンハネはもちろん、文字を知らない山岳少数民族への教育、医療など公共サービス手続きにも「交通費」や「手数料」とお金を要求した。さらには人権の基礎となる国籍(IDカード)取得に関しては、「購入するモノ」と勘違いするような状況となっていた。書類は不備でも、お金がある人は行政官が手直しして取得できた。
村人を搾取するのは町からやってくる行政官だけではなかった。町とのコネクションを持った村のリーダー達も、徐々に「タイ人化」していった。誰もが平等に公共サービスを受けられるわけではなくなり、村の中でお金を持っている人が優先され、情報も関係者だけで共有することも多くなった。
村人にとっての「貧困」は、多くの場合、単なる「お金がない状態」に見えていた。実は、「基本的人権が保障されていない状態」そのものであり、それがさらなる搾取を生む温床となっていた。根本的な解決には、経済的な支援だけでなく、人権を保護し、法秩序や教育機会を整える包括的なアプローチの必要性を痛感した。公平性がない開発によって、経済的な格差が広がる中で、農作業や家づくりをみんなで手伝い合う「手間替え」は減少、労働はお金で処理されるようになった。お互いを助け合う気持ちが薄れていく現象に遭遇し始めた。
僕たちの財団も、目の前のトラブルに対処するだけで手一杯になっていった。海外のドナー(支援者)への報告書は「いかに村が貧しくて、支援によってこんなに良くなった」というストーリーばかりになり、活動資金を集めることが目的のようになってしまっていた。住民の格差をなくしたり、社会システムの根本的な課題を見つけたりするために行政や他のNGO、研究者との横のつながりも疎かになっていた。権利や法に精通した「人材育成」への道からは遠くなっていった。
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だからこそ、インドネシアでのJICAプロジェクトへの参加は、僕にとって大きな転換期になった。それまで公務員の汚職や癒着、身内びいきばかりを見てきたからこそ、「地域の開発において、関わる人の『人材育成』や『社会の仕組み(システム)』を整えることがどれほど重要か」に、深く気づかされる機会になった。

今回の訪問では、現場で一緒に活動したFO(フィールドオフィサー)だけでなく、元JICAプロジェクトスタッフ、SISDUK(参加型村落開発支援システム)を条例化させたタカラール県・州政府の村落開発局の職員、PLSD(参加型地域社会開発)研修に取り組んだハサヌディン大学(UNHAS)の先生方、そして元JICAプロジェクト事務所職員ととも旧交を温めた。 

 

州PMD職員、県PMD職員、JICA事務所職員たちと
懐かしい顔に皆、年取ったという感じ。物故者となった人もいるので、元気で会えただけでも良かった。
彼らから聞いたプロジェクト終了後の様子は、
タカラール県では、2008年までプロジェクトで開発されたSISDUK(参加型村落開発支援システム)が実施され、数多くの住民提案型活動が採択された。タカラール県でスタートしたSISDUKは、その後インドネシア政府が全国一斉に導入したMusrenbang(住民参加型開発計画会議)という形に引き継がれている。
ハサヌディン大学と共同で行なったPLSD研修は住民参加型地域開発を担うリーダーやファシリテーターを育成することだった。持続・管理するための人材育成の仕組みとなり、行政官やNGOのスタッフを対象とし、プロジェクト終了後もハサヌディン大学独自の教育・研究活動として継続利用している。

 

ハサヌディン大学 PPKPの先生たちと
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2026 古稀のバックパッカー(インドネシア・スラウェシ編)⑧ 移動方法

マカッサル・ハサヌディン空港

パッケージ旅行のようにすべての行程がセッティングされている旅なら悩む必要もないが、通常、バックパッカーのタビは目的地への移動を自分で手配しなけれならない。宿や食事を探すのも大変だが、移動手段を確保するための情報取得などに案外苦労する。

基本は「歩く」。そのためには荷物の重さだ。背負うには体重の10%が限度だろう。若くて体力があれば何キロでも良いが、それが原因となり途中でタビを断念しなけれないこともある。僕は50代での「お遍路」や「サンティアゴの道」は、一日あたり25ー30キロは歩いた。それを何日も続けることができるか。無事、目的地に到着した時にタビの醍醐味を味わえる。

南米横断やインド・パキスタン・中国のタビでは、地元民が利用する乗り合いジープ、バスや列車などで移動した。遠距離移動なのでなるべく安価なものを選ぶ。行き先、乗り継ぎの地名を覚え、出発時間を何回も確認した。乗り遅れると次の出発は明日になることもあったし、数時間待たされることは想定内。そんなタビだから地元民の時間感覚や経済感覚が見えはじめ、時には食事や飲み物を分け合う交流が生まれ、記憶に残る。

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今回、スラウェシのタビは、友人たちが車を手配してくれ、4つの村を訪問した。時あたかもマカッサルではガソリンがなかなか手に入らない状況(古稀のバックパッカー⑤参照)で、効率よく移動できた。これも一緒に釜の飯を食った仲というのが幸いした。本当に感謝の一言に尽きる。それ以外の移動は、公共交通機関を利用した。これらを紹介して見ようと思う。

・空港での白タク

マカッサル空港到着後から市内のホテルまではタクシー。と言っても白タク。彼らは空港から出てくる客に次々と声をかけまくる。昔ながらの客引きだ。25年前は数人に取り囲まれることもあった。こちらが地元の乗車代金を知らないと吹っかけてくる。相場の2−3倍はした。

配車アプリが普及した現在でもまだ商売は成り立っているようだ。相手にしないでいると、スマホを見せてくる。なんだろうと覗き込むと、配車アプリのGrabの画面。価格の比較材料を提示しながら交渉に入ってくる。白タク客引きの直接交渉のメリットは、「すぐ乗れる、配車のためにスマホ操作をしなくて済む」ところにある。そして彼等にとってもGrabからの手数料ピンハネ(運賃料金の20%)されずに済む。

「200,000ルピアでどうだ?」と画面に表示されている価格を提示、Aさんと相談する。空港の外に出たばかりで、インドネシアのスマホの通信状況を確認するのも面倒くさい。そしてやっとタバコが吸える環境になっている。

「いいんじゃない!」とAさんも同意すると、運転手は走って車を取りに行った。

さて、市内までの2000円は本当に安いのか高いのか? 僕はホテル到着後、アプリで調べてみた。車種にもよって価格が違うが、1200円から2000円と表示されている。乗った車は高級車では無いので、少々ぼられたかな。彼等からすれば、まずまずの商売。配車アプリに対抗するために既存の白タク運転手たちも知恵を絞っている。

 

・Grabタクシー

いわゆる配車アプリの代表格だ。シンガポールに本社があり、東南アジアのほとんどの国で利用できる。タイ国内でも使うし、カンボジア、マレーシアでも使用済。僕のスマホには、Grabアプリが入っている。公共交通機関のインフラが少ない東南アジアでは若者を中心に利用客としてだけでなく、暇な時間のアルバイトとして運転手登録する人も多い。供給が需要より多いので複数の車から選ぶことができる。

「流しのタクシーが捕まらない」「ぼったくりが横行している」時代から考えれば便利になったものだ。初めての訪問、地名がわからなかったり、現地語が話せない旅行者にとっては、とにかく便利だ。アプリ内地図で車の乗車場所と行き先を地図上にポイントすれば良い。近くを移動中、または待機する車が画面に現れ、車種と価格が表示される。合意のボタンを押せば、車のナンバー、乗車までの所要時間が打ち出される。あとは道路で車を待つだけ。地図を見ていれば、向かってくる車の位置情報がわかる。

スマホが使えない、地図・文字が読めない人(現地語だけでなく日本語、英語もある)には不便かもしれない。タイに住む僕の近くの高齢者はあまり使えない。支払いは、現金かクレジットカード。重要なのは、利用後の利用者評価が反映されること。別途料金の請求や運転時の態度などの項目を採点する。この点数は、次の利用者に数字として表され、悪質な運転手が視覚化され、淘汰される。

ちなみに僕はマカッサル空港出発時にGrabタクシーを利用した。市内からは1,500円だった。

Grab画面例 私の家からチェンライ空港までの価格174バーツ(900円)

 

・ベチャとベントール

自転車を使った人力車「ベチャ(Becak)」。運転席の前に、屋根付きの大きな客席がついている。タイではサムローと呼ばれ、後ろに客席がついている。自動車やバイクの普及、交通渋滞の影響により減少傾向にあるが、観光用の移動手段や地域住民の足としてまだ残っている。Aさんが、昨夜、飲み屋からの帰りに利用したというので、僕も乗りたくなったが、なかなか見つからない。その代わり、「べントール(Bentor)」に出会った。

インドネシア語でオートバイを意味するモトール(Motor)とベチャを合わせたのが「ベントール(Bentor)]だ。歩いてでも帰れる距離だったが乗ってみた。路地を通ってホテルに帰る。200円。この距離をGrabタクシーを使うと100円チョットで行けるが、ゆっくりと夜風を感じながら動くのも乙な物。

ベチャとベントール(cr.Kumperanより)

 

・公共バス Trans Sulsel(トランス・スルセル)

都市間をつなぐ遠距離夜行バスは昔からあったが、25年前には市内を走るバスはなかった。昨年の7月にスタートしたばかりで新しい。南スラウェシ州政府運輸局が運営するもので、トランス・スルセルと呼ばれている。マカッサル市内に停留所がありお客を拾う。3つのルートが有り、その一つがタカラール県まで伸びていた。

僕が宿泊してたゲストハウスの近くのガレソン港がこの路線の終点にあたり、マカッサルに帰って来る際に利用してみた。支払いは完全キャッシュレス。電子マネーカードまたは専用アプリでの決済。現金しか持ち合わせない僕は、運転手になんとかならないかと聞いたところ、「7000ルピア(70円)」という。お釣りがないので小銭をかき集め支払った。前面には次のストップが電光掲示版で表示される。「ほとんど日本のシステムと同じじゃない」。さらにバスロケまでついており、アプリを使えば、現在バスがどこを走っているかわかる。「僕の田舎よりすごい」。中型バス。座席は20席ほどあり、定員40名。15分おき程度で走っておりすごく便利なのに、お客は少なかった。全行程で、乗っていた人は7−8人。昼の10時台のバスのためだろうか。通勤、通学時間帯なら違ったかもしれない。格安で本数も多いのに「空気を運んでいる」感じ。過疎高齢化が進む日本の田舎なら理由もわかるが、ここにはたくさんの人が住んでいる。現在州政府の補助金で賄っているらしいが、予算がなくなればストップする可能性もあり。

マカッサル・タカラール間を走るトランス・スルセルバス

(追記)配車アプリについて

日本の道路運送法では、緑ナンバーを持たない一般人が自家用車を使い、有償で乗客を運ぶ行為は「白タク行為」として原則禁止されている。ちなみに、僕が育った島根の田舎では、タクシーがない町もある。過疎高齢化の中で、バス会社も補助金が少なくなり、路線廃止や減便が起きている。交通空白地帯と呼ばれる。中山間地の公共交通の担い手不足や移動手段確保という課題がいたるところで起きている。

東南アジアや中国で爆発的に広がっている配車アプリシステムについて思うことが僕にはある。公共交通機関の課題としてより、地域の経済活性化のために導入できないか!? 基本的に、日本のタクシー代金は高い。もっと安いと利用客も増えるはずだ。地方経済の疲弊によって収入格差が生まれている。過疎地の高齢者ならなおさらだ。そしてそれ以上に重要な点は、地元民の多くの人がドライバーとして登録さえすれば空いた時間に副収入を得れることに興味がある。きちんとした有料システムが意識されるようになれば、遠慮しながら家族や知り合いに運転を頼むより、気兼ねなく外に出れる。

交通空白地帯でも需要と供給のバランスがあれば可能性がある。タイの田舎でもこのアプリは利用され始めている。そのためには法令、道路交通法や道路運送法などの特例検討や地方自治体が諦めずに知恵を絞る必要がある。マカッサルのバスに乗りながら考えた。(つづく)

 

 

 

 

 

2026 古稀のバックパッカー(インドネシア・スラウェシ編)⑦ 魚はイカン

大型の漁船が着く港では、マカッサルからトラックが買付に来る


 インドネシア語を始めて習った頃を思い出す。「魚はイカン(Ikan)、お菓子はクエ(Kue)、ご飯はナシ(Nasi)、人はオラン(Orang)」ダジャレのようなフレーズで覚えた。

インドネシア語の特徴は、読み書きがアルファベット。発音はローマ字読みでOK。時制変化もない。タビをするだけなら、カジュアルな単語のみで十分。市場に出かけて、食べ物や買い物にもすぐ利用ができるので楽しい。ただし、行政など公式の場でつかう標準語は単語が変化したりするのである適度、文法を覚えなければならない。

タイ語はチョット違う。声調があるので発音が難しい。「マー」と発音しても声調によって「馬、犬、お母さん、来る」になる。カタカナを読むような発音では理解してもらえないことも多い。外国人慣れした人なら通じるかもしれないが、市場のおばちゃんの会話でも苦労することが多い。なんたってタイ文字は古クメール語を語源にしているので、初心者は大変。

多民族、多言語のインドネシアが統一独立する時、わかりやすく、簡単である言語を共通語として選択したのがその理由らしい。スマトラ島、マレー半島で使う「ムラユ(マレー)語」がインドネシア語のベースとなった。当然、マレーシアでも通用する。しかし、元の言語が混ざったり、イントネーションが違ったり、その土地のインドネシア語があるらしい。世界遺産ボロブドゥールの入場券売り場はインドネシア人と外国人に分かれていた。なんと4倍の価格差がある。僕はインドネシア人の列に並びチケットを購入した。「どこの島から来たの?」と聞かれただけで「日本」とも言えず、笑って誤魔化した。

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さて、魚はIkan。これに焼くというBakarと付けるとイカンバカール=焼き魚=となる。

ガレソンの魚市場入口

スラウェシにやって来た理由の一つに焼き魚をたらふく食べること。海から1000キロも離れたミヤンマーとの国境で山の民となった僕には海の魚に憧れる。それも新鮮な奴を食べるにはまたとないチャンス。観光地・バリ島の洒落たイカンバカールは有名だが、海に囲まれたマカッサルも国内屈指の美味しさといわれ、イカンバカールの聖地だ。そのマカッサルの中でも、更にガレソン郡は、抜群な鮮度。漁師から魚を買い上げ、生から炭火で一気に焼き上げてくれる。店と言っても港にある掘っ立て小屋。飾り気のない長椅子と長机が並び、煙が充満しないようにオープンな作り。日本で言うと「カキ小屋」って感じ。

 

滞在中に3回、魚を食べに連れて行ってもらった。

コロダイのカレー煮、イカスミ焼き、エビの天ぷら。

最初は宿泊地近くのチョット洒落たレストラン。郡長のイッチャン夫婦が連れて行ってくれた。そこそこ有名人が来るらしく、写真やサインが飾ってある。まず、チョイスした魚を調理してくれる。コロダイのカレースープ、モンゴウのイカスミ焼き、エビ天ぷら等。綺麗な皿にのせ、スプーンとフォークで食べる。シーフード店という感じ。「美味しいけど、ちょっと違うんだな。浜辺で炭焼きというダイナミックさがない」とイッチャンに不平を言うと、「明日、ヌルリンダが本格的な地元のイカンバカールを食べさせてくれるよ」。

次の日の朝、地元の魚市場に向かう。港に併設され、朝から人々が魚を持ちながら行き交う。セリをするのではなく、直接、魚を並べて取引する。オニカマス、ロウニンアジ(GT)、フエダイなどの大型魚が並んでいる。路地では、小魚やイカ、カニ、エビが販売されている。

種類に関係なく大型魚が首を揃える

その一角に、長椅子とテーブルの上で食事している風景があった。豪快な炭火にお客が持ち込んだ魚介類がところ狭しと並んでいる。火の周りは少し熱いが、いい匂いがする。待ち望んだのはこれだ。まさにイカンバカール。

 

焼き上がった魚がテーブルに運ばれてくる。その間に、ディップする調味料を自分の味覚に合わせそれぞれが作る。ライムを絞り、塩を入れ、サンバル(チリソースの一種)を混ぜる。辛味が好きな人はさらに唐辛子を追加。もちろん手作業。料理も身をほぐしながら、骨を取りながら手で食べる。香ばしい魚はご飯(米)の食欲を増す。これも右手で摘む。スプーンはスープ類を取る時に使うだけ。テーブルの上には、各自に「コボカン(Kobokan)」が用意してある。指をきれいにするお椀でレモン水が入っている。

もちろん右手で食べる。下はカジキマグロだ。青いパパイヤ、サンバルが並んでいる。

ヌルリンダが路上のオバチャンから野菜代わりとなる海藻をもらってきた。海ブドウと海松。プチプチとした食感。新鮮で魚に一緒に食べるとマイウー。

野菜代わりの海ブドウと海松

朝から魚食べ放題。食べ残しているとヌルリンダの友人がやってきた。ご飯だけ注文し、一緒に手を伸ばす。イカンバカールは地元民のコミュニケーションツール。

 

この日は夕食も浜辺に出かけ、魚三昧。ここは、ローカル中のローカル。砂浜で開かれているお店。屋根もない。炭火の煙がモクモクしているだけで、キャンプでもしているのかと勘違いする。隣ではアウトリガー舟で漁師が獲ってきたばかりのイワシ類を網から外し、皿に乗せて運んでくる。究極のイカンバカール。イワシやカマスだ。ヌルリンダがイカやエビを追加して、朝の要領でいただく。6人でたらふく食べて約1800円。

浜辺のイカンバカール。舟→皿→炭→テーブル。あっという間にご相伴にあずかる

2026 古稀のバックパッカー(インドネシア・スラウェシ編)⑥ ボントロエ、ボントカシ村

 僕が生まれた山陰では夏の夜、イカ釣り舟から煌々と灯される漁火が日本海に浮かぶ。暗闇の中、緩やかな波の音で心が落ち着き、星が海に降りたような錯覚になる。他に宿泊客がいないビンタン・ガレソン・ゲストハウス。夜漁に出ている小舟の明かりを見ながら故郷を思い出した。ただ違っているのは水平線の上にかすかな光を放っている南十字星。遠く赤道を越えた地に来ていることを実感する。

砂浜で出漁を待つダブルアウトリガー舟(ボッディア村で)

大きな漁船は少ない。漁民たちの舟はダブルアウトリガーの小さな舟。ダブルアウトリガーとは、左右両舷に浮力体を備えたカヌーだ。風とパドル(櫂)で漕いだが、今は小型エンジンを横につけているものが多い。港は必要ない。家に近い砂浜で船体を休める。滑るように舟を押し出し海に出る。

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今日も快晴。ヌルリンダと彼女の旦那が迎えにきてくれた。マカッサルから南に向かう幹線上にあるボントロエとボントカシ村の案内役だ。

ボントロエ村

海岸部に近く漁民が多い村。プロジェクトでは、村の図書館建設、精米機、2艘のボート、店、村の集会場改築、 コーラン読書グループへの支援などの活動をして来た。この村でのプロジェクトに僕は直接的に関わってないので、村人との親交があまりなく、現村長のアミールさんを訪ねた。

僕は「SISDUK」という単語を知っているかとまず尋ねた。

「SISDUK」とは参加型村落開発支援システムの略名だ。住民グループが提案したインフラ、経済、文化、宗教などの活動を3割の自己資金と県村落開発事務所(PMD)の資金で実施できるシステムで、プロジェクトでスタートさせた活動支援制度だ。住民が活動を提案、30%の自己負担をして県での申請が通れば、70%の資金が降りる。2002年からタカラール県はこの事業を条例化し、システムは正式な村落開発事業として予算が確定し動き始めた。従来のトップダウン的な村落開発から、住民参加によるボトムアップ型活動はこうして生まれた。2008年まで続いたSISDUKはその後、住民グループがNGOや銀行などから独自に融資を受けることができるようなり終了したが、コンセプトは今に続いている。

村長は、「名前は聞いたことがある」というのが答えだった。どうも詳細は知らないようだ。もう20年も前のことだから仕方ないか。。。

プロジェクト後の評価書には、この村での活動があまりうまく進んでないと記述されていた。原因として、「村長と住民間の信頼関係の欠如が課題となっていた。村長が住民を信用していない。SISDUK の普及説明会は、村長の親族や一部の住民組織代表を集めて開催されていた。また、村長は、SISDUK の事業資金の配分先を指定したり、組織のメンバー構成やグループ間の事業予算の配分も決定していた。県からの事業資金も住民に代わり村長が受領している状況であり、住民側は事業資金の一部又は全額を受け取ることができていなかった。」と書かれてある。SISDUKという名前がどれだけ定着しているか僕は確認をしたかった。

参加型開発は住民だけを対象としたものではない。いくら住民がやる気になっても、地方行政官の意識が変わらなければ、システムはスムーズに動かない。条例化され通常予算が確定すれば、それなりにお金の問題も起きる。以前のようなコラプション(汚職)が出てくる可能性も多分にある。

プロジェクトは地方行政官への意識トレーニングや開発モジュールの作成を大学と一緒に行ってきた。住民だけでなく、行政官(州、県、郡、村)、大学を巻き込んだ複層アプローチだった。そこには、村長も組み込まれていたが、参加型開発のコンセプトや目的がスムーズにつながるのは難しい。これまでの行政の体質や住民の受け取り方が変わるには時間や別条件、そしてインセンティブ(刺激や動機付け)も必要となって来る。

村長の話を聞きながら、やはり、従来型のトップダウンの開発のイメージが強く残っている印象が多かった。彼は、この村の経済発展には、海岸部につながる道路が良くなった方が良いとインフラ整備を語った。海岸を訪れる観光客を呼び寄せ、焼き魚のレストランが繁盛し、お金を落とすようになる。残念ながら、25年前にも同じような話を他の村で聞いた覚えがある。住民主体的に村を変えたような話は聞けなかった。

従来の慣習から村長には透明性や統治意識が欠けている村長が選ばれることもある。多くの予算額を引っ張ってくる人が良い人という認識が住民にもある。それがどのように使われるかわからなくても。県から郡長、村長、区長、住民のつながりは一筋縄ではいかない。

右端が現村長。(ボントロエ村役場にて)

同じ一次産業で有りながら、「漁民」と「農民」の間は大きな隔たりがある。農民は生産の基盤となる土地の所有、区画がはっきりしている。水の共同利用や農作業の互助関係があり、数ヶ月、数年にわたって農作物を育てていく。纏まりやすい。一方、海という共有財産はあるが、資源を求める競合関係。どこに魚がいるかを自分で考え動く。その日の収穫イコール収入。そして一歩間違えば、命を失う世界で漁民は勝負している。

やはり考え方と生き方の差を感じる。地に縛られ、国家や領主から一律の管理を受けやすい農村部とは違ったアプローチがあったのではないかと思う。答えは何かと言われてもアイデアは浮かばない。

ただ情熱的、豪快な気質を持つ漁民。常に自然と対峙し、自然環境を肌で感じている。

収入に直接繋がらないから興味は薄いかもしれないが、共有資源としての海の環境保全の活動を通して、長期的な生産・生活環境を維持活動もその一つ。「森は海の恋人」。漁民が山に木を植える。宮城県気仙沼湾のカキ養殖漁師であった畠山重篤さんを思い出した。

 

ボントカシ村

長く活動を続けている女性グループの代表者にあうことができた。

南スラウェシ州マカッサル・ブギス族の地域には、伝統的なイスラム帽として「ソンコック・レッカ(Songkok Recca)」 がある。特徴はヤシ科の植物であるロンタル(Lontar)の葉の繊維を細かく叩きほぐし、手作業で丁寧に編み上げて作られる伝統工芸品。黒を基調としながら、金糸や銀糸が美しく織り込まれている。

ボントカシの女性グループは、SISDUKの支援で25年前に「手工芸グループ」をつくり、今も活動している。説明してくれた・・・さん(名前忘れた)は現在29歳。プロジェクトがスタートした時は4歳だったという。お母さんの世代のからの活動で、副収入を得ている。「以前はマカッサルにあるお店を通して販売してもらったけど、そこは店じまいした。長くやっているので直接注文を受けたり、最近はインターネットを通して販売し、副収入を得ている」と話してくれる。20年近く品質は向上しているが、デザインは変えない。文化を守ると言う。

イスラム帽・ソンコック・レッカ(ボントカシ村で)

ボントカシ村では、農民グループでの活動も続けられていた。乾季の畑作のために地下水組み上げポンプを管理している。

今回、カリマンタン島で仕事をしているために会うことができなかったFOの一人、Alibasが地道に活動していた村だ。彼は頻繁に村に足を運び、住民とよく対話していた。「住民は援助があると、お金だけの話になり参加してくるが、お金が止まればストップしてしまうのが当たり前。継続、発展のためにSISDUKの考え方(意識)を納得できるまで何度も話す必要がある」と言っていた。プロジェクトが作成したビデオCDを使い、SISDUKの流れ、コンセプト、目的を住民グループに丁寧に説明していたことが、今でもこの村での活動に根付いていると感じる。

FO アリバス(FBより、今はカリマンタン島在住)

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タカラール訪問中はガレソン郡の宿に宿泊した。海沿いのプールがあるホテル。さぞかし豪華なホテルと思うかもしれないが、正確に言うとプールに付随するゲストハウス。日本で言えば、プールや宿泊施設、カフェなどが一体となったローカル向け複合型のリゾート地。到着日が日曜日だったので家族連れ、子どもたちがプールで遊んでいた。さすがイスラムだけあって、女の子たちは着衣して泳いでいる。

「賑やかすぎだな」子どもたちのキャーキャーという奇声と屋外での音楽の生演奏が被る。この町には適当な宿泊施設がないため、郡長のイッチャンが紹介していくれたのが、ここだった。海に面しているが、ビーチはない。しかし、マカッサル海峡に沈む夕日だけは抜群だった。夕食には、彼が近くの焼き魚店に連れて行ってくれ、魚介類を堪能。ヤシの樹液を発酵させた醸造酒「トゥアック(Tuak)」にも巡り合った。

 

2026 古稀のバックパッカー(インドネシア・スラウェシ編)⑤ ラッサン、バルガヤ村

 朝から真っ青な空が広がる。数カ月雨は降ってない。乾季。当然といえば当然だが、鬱な気持ちになる暇はない。今日も暑いだろうなー。

ラッサン村

 海のあるタカラール県の中では内陸部にあたるラッサン村。ゴア県から南に向かう基幹道路を外れると、村に向かう道幅が狭くなり、未舗装部分が出てくる。車窓からは農村風景が広がる。灌漑用水が整備されている水田。田植えを終えたばかりの青々としたイネもあれば、収穫脱穀したばかりところもある。一年に三回も収穫できる三期作地帯だ。サトウキビやトウモロコシ畑も点在する。

 見覚えのある風景が広がりはじめた。高床式のマカッサル風の家が点在しているラッサン村。家並みも家の造りもかわってない。

カンバさん宅を訪問

 元区長だったカンバさんの家を訪問。木造の家は昔のままだった。高床式。釘を使わず、はめこみ式、柱の底は地面に埋め込むのではなく、石の台座の上に載せているだけ(石場建て)で、宮島の厳島神社の鳥居のようだ。切妻式の屋根は高く、暑さに対応でき、風通しが良い。マンゴー、パパイヤ、ランブータン、ヤシなどの果樹が家を取り囲んでいる。

 壁に貼り付けられた、プロジェクト看板を見つけ、一気にタイムスリップ。かすれたJICAロゴや文字が年月の長さを物語っている。

「お前の髭も白くなった」とカンバさんが懐かしむように、笑顔で迎えてくれる。

樹の下の縁台に座り、さっそくお話を伺う。

「あまり、村が変わったという感じがしないんだけど?」率直に尋ねた。

「見た目は変わらないかもしれないが、世代が代わって、村の中の人達の動きは変わったよ」と言う。一緒に作った農民グループは相変らず、農機具の共有をし、稲作の共同作業をしているけど、若い世代は、現金を揉めてマカッサルなどに働きに出ることも多い。ほとんどの家がバイクを持てるようになった。自給自足から現金社会に変化していく村落の様子を説明してくれる。

 話をしている家に近くの人々があつまってきた。樹の下の縁台はオープンエアー。イワンは県職員、僕らは日本人。着飾ることもなく、村の様子を口々に語ってくれる。

「若い世代は、子供の数が減ったなー」。

「コロナの時、この村も死者が出た。外の世界への行き来も制限されたが、それほど不自由はなかった」等と過ぎた時間を思い出してくれる。

ランブータンの木の下の縁台で

 豊かではないが、質素に自給できる生活を営んでいるように僕には見えた。不確実性の時代と言われるが、それは社会変化のスピードが早い世界に生かされている人達の話で、その波に乗らない人にとっては自然の流れの一部かもしれない。

 ゆっくりとした時間が流れていた。ラッサン村での短いひとときは、衰退化する日本社会、早いスピート生活変貌するタイ社会、急速に経済変化した中国とは違い、恒常的な社会を見せてもらった。ただ、コーヒーと一緒に出された菓子が、衛生的に見え、形が揃い、きちんと包装されいたのことだけが昔と違った。町から購入したものだろう。

 

 訪問を終え村の外れで、できたばかりの新しく大きな建物を見た。メラ・プティ村落・行政村協同組合。ブラボウォ大統領が全土で整備を進めている地域経済の拠点及び村落向け協同組合プログラムだ。「メラ・プティ」とはインドネシア語で「赤白(国旗の配色)」を意味し、 村ごとに「共同店舗」「倉庫」「金融窓口」「物流拠点」を一体化したインフラを構築することを目指してる。ジャワ島ではすでに運用が始められたらしいが、ここでは「建物はできたが、まだ活動内容は決まってない」らしい。地方分権化の流れは2000年から始まったが、再び全国一律の動きが強くなり、中央集権的なトップダウンの流れに戻り始めるのではないかという匂いを感じた。

建物が完成したばかりのメラ・プティ協同組合(ラッサン村にて)

 

バルガヤ村

 車は更に山間部に進む。バルガヤの周辺は森に囲まれていた。25年前、初めて訪れる時は、この村は僻地にあり、インフラも十分でない貧困村というイメージがあった。町から遠く、舗装道路もなく、平坦地が少なく、農業による収入の低さからなんとかできないかと聞かされていた。

区長のソソン宅を訪れた。当時はまだ生まれてなかった孫の結婚式が行われる日にあたり、その準備に忙しそうだったが、懐かしい僕の顔を見て、「まだ森を守っているよ」と開口一番に言いながら握手してくる。

バルガヤ村のソソンさん(後ろ右)

彼の言葉の意味は、25年前に遡る。

村人との初めての集会で、「村の開発をどうした良いと思うか?」という質問の返答が、「とにかく良い道路が欲しい」と要望が返ってきた。「自分たちができることで何があるのか一緒に考え、行政に提案しよう」と説明した。グループで孵卵器を作ってたくさんの鶏を飼うための資金が欲しい等の小さな経済活動の提案があったことを覚えがある。そんな時、この村の航空写真が手に入った。つなぎ合わせると縦横3−4メートルの大きさになり、区長のソソンさん宅の皆が集まった折、黙って大広間で広げた。村人は、最初はこれがなにかわからなかった。誰かが、「これ、俺の家じゃないか!」と声を上げた。彼の指先が動き始め、「ここがソソンの家」「ここが誰それの畑、道路、森、池」と確認を始めた。周囲の山や川、道路の繋がりから全体像を徐々に把握でき始め、これが「バルガヤ地図」であることを理解した。人だかりができ、暗い裸電灯の下に自分の家を探す。人陰でもっと暗くなる。誰かが懐中電灯を取り出し始め、写真の上に数々のスポットライトがあたり、寝転んで見るものまでいる。

この村には、当時飛行機の乗ったことがある人などいなかった。

目線の高さ(地上)と、上空からの鳥瞰(ちょうかん)視点を往来し始める。眼の前の大きな写真を頭の中で回転させ、実際の方向と一致させる。地図の周りをグルグル移動する。

この経験は、村人たちの開発にたいする考え方に刺激を与えたようだ。航空写真の大部分を占める森に眼が注がれ、これまで隠れた場所が浮き彫りにされた。

「自分たちの地域資源の森をもっと管理・利用できないか」という声が出始めた。村人は森からたくさんの食べ物や衣食住の材料を供給してもらっていた。まさに「森はスーパーマーケット」だった。

それは当たり前のことだったが放っておくとなくなる可能性もある。この村の開発は、新しい活動より「森をもっと守る」という意識の芽生えでもあった。ソソンさんが植林の講習会にでたこともあり、「チークの苗をつくり、森に植えよう」。「外の村から伐採や資源を取られないように、森の管理をしよう」。住民の住民による住民のための村落開発はそんなところから始まった。再会したソソンさんが言った言葉はまさにそんな流れを覚えていたからだ。

 早速、森を見に山に上がった。残念ながら村に近い場所は、一部開墾されトウモロコシ畑になっていた。また近くには、大きな養鶏場が建設されていた。インドネシア国内で急速に需要が高まっている鶏肉や卵の生産を支えるための主原料として栽培している。

 ソソンさんは言う。「村の後ろの大きな山には手をつけないようにしている。池の水がなくなると、住民が困ることを皆知っているからね」。

村に近い森は、トウモロコシ畑に開墾されていた

 プロジェクトが終了してからの後日談がある。タカラール県知事がこの森林環境を見て、別荘を森の中に私邸を建設することになった。それにつれて、なんと道路が全舗装になったと言うおまけまがついてきた。「道路が欲しい」と要望していた住民の願いがかなったと、FOをしていたイッチャンが経過を語る。「棚からぼた餅」はこのことか。

 

インドネシアの石油事情

ところで、マカッサルから車をチャーターして出発したが、ガソリンスタンドに並ぶバイクの列が気にかかった。道路につながり、その長さは数百メートルになっている。「ガソリンが足りないんだ」とイワンが説明。自身も昨日、4時間並んだという。

ガソリンスタンドから路上につながるバイクの列は数百メートル

産油国、インドネシアなのにガソリンが無い!一瞬、耳を疑った。

太平洋戦争開戦前、10%の自給率の日本は、石油確保のためにインドネシアに向かった。スマトラ島のパレンバンを攻撃、オランダが持つ石油施設をめざした話は有名だ。

80数年前も今も世界をコントロールするにはまず石油を。トランプがベネズエラやイランでやっていることも、あまり変わらない。EVが普及し、レアーアースがむしろ重要になっているがやっぱり石油。モビライゼーションが進み、庶民が直接うけるリスクは大きくなっている。

インドネシア人に詳しく聞くと、ここのガソリンが無い理由が、はっきりした。インドネシアの石油産地は、スマトラ、ジャワ、カリマンタン島。スラウェシ島には製油所が無いので外から運んで来なければならない。需要に対して輸送船での供給が追いつかないことが原因の一つらしい。

インドネシアでのガソリンの値段はリッターあたり約100円。値段が落ち着いたタイでも180円する昨今、100円は安いと思う。しかし、このRON90というガソリンは中東情勢等の世界的な原油高騰で、インドネシア政府が補助金で賄っているガソリンだ。だから誰も彼もが好きなだけ給油できるわけではない。アプリでのQRコードや身分証明書を通して管理している。政府も財政負担が気にかかる。これが「需要集中」を引き起こす最大の原因らしい。大安売りをするスーパーにお客が殺到するようなものだ。

 ちなみに補助金なしのRON92は約160円で1.6倍。一緒に同行してくれたヌルリンダは、途中、雑貨屋でペットボトルで売られているRON92を五本購入して給油口に差し込んだ。

路上の雑貨店でペットボトルに入ったガソリン購入

 

2026 古稀のバックパッカー (インドネシア・スラウェシ編)④ タカラール県へのタビ

 プロジェクトに関わったことが、僕の足をインドネシアにつなげてくれたのだが、当時、激動の歴史が流れていたことを思い出す。

 1997年のアジア通貨危機を発端としたインドネシア社会は、物価の高騰などで混乱し、社会不安が急激に高まる。開発独裁体制や親族・取り巻きによる不正蓄財をしていた。スハルトへの退陣要求が進んでいく。98年に入ると抗議デモが全国各地に拡大してきた。

1998年ジャカルタ暴動 (Credit: Reuters/FORUM)

 5月には大暴動となり、運動に参加していた学生に死者がでる。

日本の外務省は早急に、在留邦人の一斉国外退去を呼びかけ、民間機の臨時便やチャーター便を運行、約9000人の日本人が避難したことを覚えている方も多いだろう。邦人の国外退去に、今では当たり前のように飛んでく自衛隊機も、この時は法的制約があり、シンガポールで待機するだけで、有事に動けないという論議が起きる。日本の安全保障法制に決定的な影響を与えた記憶が僕にはある。

 当時の様子を、Aさんは、「ジャカルタからの脱出となっていたが、地方に住んでいた私達は、ジャカルタに行くことがさらに危険に巻き込まれる可能性があるし、そこまでたどり着けるのかどうかも分からなかった。結局、バリ島に避難することになる。おなじインドネシアで有りながら、宗教や民族が異なるバリは平穏だった。避難中はやることがない。民間企業の人達のなかには、毎日ゴルフをやっている人もいた。」と報道による邦人避難とは違う一面を思い出しながら語ってくれる。

 5月21日。約32年間、開発独裁体制(民主主義の手続きは多様な利害の対立を生んで経済開発を遅らせるという考えのもと、効率的な資源配分や社会の安定を強権的に維持しようとする)を貫いたスハルト政権は終わり、やっと落ち着き始める。この激動の時代に、僕達のプロジェクトは実施された。正式名称は、「スラウェシ貧困対策支援村落開発計画」。実施期間は1997年3月1日 〜 2002年の5年間のJICAプロジェクト。1990年代当時、インドネシア国内における経済格差(特にジャワ島を中心とする西部と、開発が遅れていた東部スラウェシなどの地域格差)が深刻化しており、インドネシア政府はこの地域の貧困軽減を国家目標に掲げていた。

 南スラウェシ州の「ラボ村落(実験村)」での実践を通じ、地方行政(内務省村落開発総局など)の住民参加型村落開発プロジェクトの立案・運営能力を強化すること。単にインフラや物資を支援するのではなく、現地の住民自身が主体となって開発に関わる「社会的能力(キャパシティ・ビルディング)」の向上や、行政がそれを支える仕組み作り(組織・制度つくり・トレーニング)に焦点が当てられた。この計画の先進性は、スハルト政権による中央集権から地方分権化へと移行するだろうと予想の上、地方行政のあり方と住民組織作りが組み込まれていた。

 プロジェクトの後半に参加した僕は、これまで中央政府がトップダウンで担っていた住民開発を、「住民グループが自分たちの手で計画立案し、行政資金だけでなく自らの資金を投入し、運営管理する」活動を定着させる役割りを担っていた。現地のNGOから参加したFO(フィールドオフィサー)をカウンターパートとして、一緒にタカラール県内にある実施村(ラボ)にでかけ、伴走した。

タカラール県内のプロジェクト・ラボ村

 タカラール県(Kabupaten Takalar)はマカッサル市のすぐ南側〜南西側に隣接する。海から山地まで広がる地域。中心部から車で約1時間〜1時間半(南へ約30〜40km)ほどの距離にある。人口約35万人、面積566km²。日本で言うと一番小さな香川県より小さい。(地図参照)

 実施村は、中山間地のLassanng(ラッサン)、山村のBarugaya(バルガヤ),それから平坦農村地のBontoloe(ボントロェ)とBontokassi(ボントカシ)村。それぞれが異なる地形・地域資源を活用しながら、自給自立している村で、質素な暮らしをしていた。時間がゆっくり流れ、訪問すると、村人たちが夜遅くまで集まってくれ、日本から来た僕の話をタバコを燻らせながら耳を傾けていた。

 今回のタビは、この4つの村を再訪することだった。プロジェクトの成果を見るというより、すこしノスタルジック。当時、出会った人たちの旧交を温めることはもちろんのこと、経済発展の中で不確実性が高まる社会、コロナという時代、情報社会の進展、彼らはどのように乗り越え、生きてきたかを知りたかった。また、それに合わせ、古希を迎えた僕自身がどのように内面変化したのかを知る機会と捉えていた。

 バックパックひとつの古稀のタビ。海から千キロ離れた大陸で生活してるので、海岸でゆっくりしたいなー。どこかの国、どこかの街を訪ね、ふらふらできる時間的余裕も高齢者だからある。残念ながら金銭的余裕はあまりないが。有名な観光地を訪ねたり、郷土料理を口にすることもできる。マカッサル周辺にも良いところはたくさんある。

しかし、誰かに伝えるために「行った」「食べた」だけのタビではだんだん面白く無くなっていることを考えるようになった。知識を増やすのも面白いが、高齢になるとやはり、新しい感動は少なくなってくる。体力的にも無理をしなくなる。

 タビからもらえるエネルギーやその質を考える交差点に差し掛かっているようだ。「人生は旅のようなモノ」と言われる。山あり谷あり。だから、今回は、過去の自分との出会いを通して、谷と山の存在を確認する意味合いも持っている。 

 2泊3日のタカラールの田舎道への誘いは、元FOのイワンとヌルリンダがキーパーソン。それぞれタカラール県村落開発事務所やNGOのリーダーとして活躍している。宿は、夕日がきれいなガレソン郡の海辺を郡長のイッチャンが紹介してくれた。彼らは僕の空白時間の情報を補い、錆びたインドネシア語の意味を汲み取り、簡易な言葉で翻訳(インドネシア語からインドネシア語)し、村人とつなげてくれる。

車窓から見える景色や匂い。過去の記憶をたどりながら、いざ村に出発。(つづく)

イワン。タカラール県村落開発事務所のリーダー

ヌルリンダ。NGOのリーダーとして環境問題に取り組んでいる。

宿からマカッサル海峡に沈む夕日が美しい。