toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2023 古稀のバックパッカー㉘ そして新疆の中心、ウルムチへ

ウルムチに向かう車内で

  街の郊外にあるチャルクリク駅に向かおうとしたが、予約したタクシーが来ない。流しはいない。列車は一日一本なので乗り遅れると明日ウルムチ発の飛行機に搭乗できなくなる。中国公安は怖かったけど、近くにいた警察官に近づいた。いつものようにパスポートのチェックから始まるが、事情がわかると無線でタクシーを呼んでくれ、さらに大体の相場も教えてくれる。この方法が有効だとわかったのはホータン(和田)に入ってからのことだ。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」かな。

 今日の行程は、格庫線 (かっこせん)に乗ってタクラマカン砂漠東部を縦断し、コルラ (庫尓勒)へ。そして南疆線(なんきょうせん)に入り、天山山脈を左に見ながらトルファンに向かい、更に蘭新線(らんしんせん)でウルムチ(乌鲁木齐)を目指す。総距離1090キロ、11時間に及ぶ。料金206元(約4000円)

 

 長時間なので車内で飲食品を購入しようとするが、商店で2元の水が7元、5元のビールが12元だったり2−3倍もする。「ボッタクリ商売かよ」と言いたくなる。中国語がわからず、現金払いする僕だけがボラれているのだろうか。以前にも中国鉄道には数回乗ったことがあるけど、こんな感じじゃなかったような気がする。中国の列車車両はお湯が出るので周りの人々は持ち込んだラーメンを自分で作っている。

コルラ(庫尓勒)

 車窓からの砂漠の風景は相変わらず、霞んでいる。コルラ(庫尓勒)が近くなってきた。玄奘ガンダーラに向かう往路で、西にあるクチャ(庫車)から天山山脈を超えてキルギスに入っているので、このコルラも通過しているはずだ。山並みがうっすら見え始め、周囲の風景が緑豊かになってくる。道路沿いにはポプラ並木、灌漑がしっかりしているのだろうか、畑にはじゃがいもが植えられていた。

ポプラ並木とジャガイモ畑。水が豊富になってきた風景

 コルラの街に近づくと火力発電所が見えてきた。海から遠く離れた内陸発電所は独特の空気冷却塔を持っている。僕がよく使う湾曲がある陶器の焼酎カップを伏せたような形。島国日本では海水冷却ができるのでほとんどないが、大陸を駆け巡るとよく出会う。

 海外の報道は民族問題が争点となるが、中央政府にとって新疆ウイグル自治区が重要なのは、豊富な自然エネルギー資源があることが理由だ。「新疆は最も石炭資源が豊富で、その埋蔵量は2兆1900億トンと推定。これは中国国内の石炭埋蔵量の約40%を占めており、全国1位」と記されている。

 コロナウイルス禍で落ち込んだ景気、そして不良債権から起きる経済減速に対応するため、安価で自給可能な石炭を求めて「新たな火力発電所が建設されている」と聞く。2060年までに二酸化炭素(CO2)排出「実質ゼロ」を目指すとの国際公約はどうなっているのだろう。やはりコロナは将来の中国にとって大きな曲がり角になることは確かだ。

火力発電所。独特な空冷冷却塔が目を引く。

ウルムチ(烏魯木斉)

 夜、10時過ぎに予定通り列車はウルムチ駅に到着した。9年前、当時高校生だった息子とこの駅を訪れた。北京行き寝台列車に乗るために発車2時間前に到着したが、駅外からプラットホームまで3回の検問があり、もう少しで乗り遅れそうになったことを思い出す。その1年前の4月にウルムチ南駅で爆破があり82人の死傷者をだし、至るところで厳重な取締り、フェンスで囲まれた雑踏の中で人々のギスギスした雰囲気を感じた。しかし、今は大きく様変わりしている。新幹線もつながり、きれいで洗練された大都会のターミナルとなっていた。9年前のウルムチ駅の姿はどこにもない。当時地下鉄1号線工事が始まっているのを見たが、すでに開通し、2−4号線まで着工中とのこと。ウルムチ駅だけでなく、空港まで変わっている。看板や高層ビルを見る限り、中国東部の大きな街と比べても遜色ない。経済発展のスピード、中央が重要だとすればあっという間に変貌することをまざまざ見せつけられる。

高層ビルが立ち並び、経済発展が顕著に見える。

 すれ違う人々を見ると、漢人の比率が高い。これまで訪れた新疆の各都市に比べ、ウイグル人の顔をみることが少ない。9年前と違う。2020年の調査によると、中国新疆ウイグル自治区の首府であるウルムチ市の住民構成は、漢族が75.30%、ウイグル族が12.79%、回族が8.03%、カザフ族が2.34%などとなっている。ウルムチはすでに漢族の街になっているのではないかと勘ぐってしまう。

9年前のウルムチウイグル人のバザール、モスクが至るところにあった。


 早速、予約した西域港湾国際青年旅舎に向かう。この内陸のどこに港湾があるのだろうと勘ぐりながら場所を探したが、ビル街のど真ん中にあった。集合ビルの中にあるから、大きな看板もなく、目印がない。警備員らしいおじさんに漢字で書いたユースホステル名を見せると、二本の指でクロスをつくるサイン。一瞬、「もう閉まっているのか」と慌てたが、どうも10階へエレベーターで登れと言っているみたいだ。

ユースホステルは十階

 ここでも、チリから来ていた一人の留学生を除いて宿泊者は中国人ばかり。年齢的に明らかにおじさんたちもいる。青年旅舎には当然、「昔の青年」も宿泊できる。もちろんドミトリー(相部屋)が気にならなければ僕のような古稀の人でもOK。早速、シャワーを浴びて、明日の飛行機に乗るために、近くを散策しながら腹ごしらえをする。金欠病にかかっているので、高菜入りのチャーハンだけを頼むが、結構なボリュームの上に油っこい。いつもの食欲増進剤のビールも頼めず、半分ぐらいしか食べれなかった。お店の人が残りを包むから持っていくかと親切に勧めてくれたが、断った。お金が少なくなると胃までも小さくなるのかな。もう夜の12時を過ぎていた。身体が受け付けないのだろう。 

夕食は一品のみ。

 朝、起きたら海南航空からMailが届いてた。「昼過ぎの北京行きの飛行機が5時間遅れで夕方になる」と書かれていた。「おいおい、当日でなく、もっと早く連絡しろよ。そうすれば桜蘭の美女がいる新疆ウイグル自治区博物館を訪問することができたのに」とぐちが出た。一方、面倒くさいことも起きてきた。北京到着時間は21:35。それだと、22:05発のバンコク行きに乗り継げない。いずれにしても、空港に行き、バンコク行きの飛行機便を翌日に変更し、北京での宿泊先を提供してもらうように海南航空と交渉をしなければならなくなった。

 一気にタイまで帰ろうとしたが、なかなか脱出させて貰えない。





2023 古稀のバックパッカー㉗ 桜蘭、ロプノール


 「ローラン(桜蘭)」、さまよえる湖「ロプノール」

 玄奘三蔵の帰途をなぞってインドから線を引いた僕のタビは、ホータン(和田)であえなく計画中止となったが、その前にぜひここだけは寄っておきたいと思った場所がチャルクリク(若羌)だ。

 ウルムチに向かう前に少しでもいいからと途中下車した。人口3万程度の小さな街でウイグル人だけでなく、明らかにモンゴルの顔つき、体つきをした人たちの姿を見かける。漢字では若羌と書くが、モンゴル語で「チャルクリク」と呼ばれている。

モンゴル系とわかる子どもたちもいた。学校に行くためバスを待っている。

 若羌はシルクロードの歴史を語る上でとても重要な桜蘭、ロプノールがあるところ。

 「楼蘭」の名前が初めて歴史上に現れたのは、司馬遷の「史記」。 紀元前176年、匈奴冒頓単于前漢の文帝に送った親書に「楼蘭以下二十六国を完全支配下に収めた」と記したことを伝えている。今から二千年以上も前のことだ。 天山南道、西域南道の分岐点に位置していた楼蘭は、砂漠の中のオアシス都市として繁栄を極め、紀元前七十七年に漢に降伏し「ピチャン」と国名を変えた後も漢の「西域三十六国」を治める軍事拠点として栄えた。

  しかし、644年に玄奘がインドから唐へと帰国する際には全くの廃墟となっていた。「城郭あれど、人煙なし」。「大唐西域記」で玄奘はこのように記している。これ以後、楼蘭は歴史から全く消え去ったとされている。

 ここは早い段階から仏教の強い影響を受けた。3世紀の楼蘭の仏教は極めて組織化されていた。僧団(サンガ)は楼蘭支配下の各オアシス毎に設立されていたが、これらは中央の大僧団によって統制されていた。西暦400年、玄奘以前に楼蘭を訪れた中国僧・法顕は、「4000人の僧侶がおり、上座部仏教を学んでいた」と記している。

 井上靖著の小説「楼蘭」を読んだことがある。小説というよりは史書のような趣きで、どこまでが創作でどこからが史実か分からなかった。古い小説だがタビの出発前に再読、歴史や地理がわかるにつれて引き込まれた。かつて存在した都市。西洋的なローランと言う地名もロマンを掻き立てた。「さまよえる湖」ロプノールが人々の生活を潤し、シルクロードの要衝として、交易が栄えた。桜蘭古城跡はチャルクリク(若羌)から北東200キロの砂漠の中にある。現在は中国政府によって外国人による調査禁止だけでなく観光客としても立ち入りできないが、近くまでは行きたいという憧れがあった。そして、チャルクリクでは出土品を集めた桜蘭博物館が約10年前に開館した。

桜蘭博物館

 ロプノール湖は、カラコルムパミール、そして天山山脈をはじめ、タリム盆地を取り囲む山々の雪解け水を集めるタリム川が流れ込んでいた。湖から流れ出る川はない。湖水は強い陽射しで蒸発するか地中に浸透して消えていくため、次第に塩分が蓄積して塩湖となった。紀元前一世紀の頃にはまだ大きな湖であったという記録が残されているが、四世紀前後に干上がったと見られている。(wikipediaより)玄奘が訪れた時にはすでになかった。

周辺地図

 「楼蘭の美女」

 かつての古城桜蘭は洋の東西をつなぐ要衝として栄えた桜蘭だが、それを更に遡ること一千数百年以上前にも人々が生活していた。楼蘭鉄板河遺跡で1980年にミイラが発掘された。名付けて「楼蘭の美女」。推定では3800年前に埋葬されたもので、身長152センチ、血液型O型、死亡した推定年齢は45歳。眼は深く、鼻は高く、髪は黄褐色、南ロシアから南下してきた白人系人種(コーカソイド)と考えられている。明らかにヨーロッパ系の人種である。一躍世界中にシルクロードブームを引き起こした。

 乾燥した砂漠の中で眠り続け、発掘された時は全身が毛布でくるまれていた。『毛布は胸で合わさり、木製の針でとめてあった。頭にはフェルトの帽子を被り、足には羊の皮の靴を履いていた。帽子には雁の羽が二本さしてあった。頭の近くには、草で編んだ籠が置かれていた。胸元の木の針をはずし、毛布を広げると、上半身は裸身であった。下半身には羊の皮の下着を着けていた。顔は黒くなっているが発掘時には白かった』と記録されている。ミイラは現在、ウルムチにある新疆ウイグル自治区博物館で保管展示されている

復元した「楼蘭の美女」(トリップ・アドバイザーから)

 

 中国の歴史記録以前にも、ここには多くの民族が交差していたことがわかった。異なる民族との混血が進んでいても不思議ではないが、DNA検査分析では当時の彼らは遺伝的にはそれほど多様ではなかったのだ。未知の点についてはこれから調査研究によって事実が明らかになってくるだろうが、僕はこのタビで、パキスタンで出会ったカラーシャ族のことを思い出した。今でこそ、多数の民族と混血化しているが、白人のような美人が多いところだった。(参考:古稀バックパッカー⑪チトラル・カラーシャ族)

 このミイラを埋葬した人たちはその後どこに行ったのだろう。謎はどんどん深まる。一千年にも及ぶ空白期間の謎がどのように解明されるのか期待していると同時に、不安もある。今の中国という国は自分たちの領土を守るために歴史を持ち出す。僕は中国入国する際に中パ国境で持参した地図が中国政府のものと異なるためにこっぴどく叱られた。漢民族が領土保全のために歴史的マイナス資料となる場合、隠蔽することもあるかなーとちょっと心配する。

 チャルクリク(若羌)滞在はたったの12時間。朝から博物館周辺を散歩したが、開演時間は10時から。僕は再び11時発の列車でウルムチに向かわなければ、北京行きの飛行機に乗り継ぐことができなくなるため閲覧することができなかった。

古稀バックパッカーのタビ」を諦めずに続けるとしたら、次回はこの桜蘭博物館からスタートして、北東の敦煌に向かうことになるだろ。

チャルクリク駅

 

2023 古稀のバックパッカー㉖ ホータンからチャルクリクまで列車の中で

 仏教が伝わった経路を辿って、敦煌西安を目指したが、どうも道は遠いようだ。「タイへ急遽帰国」という計画変更を昨晩決断した。70歳を迎える古稀の一人タビ、辺境の地を7キロの荷物を背負って、住民と同じ手段で移動・滞在・食事をしながらインドからパキスタン、そして中国へつなげてきたが、道半ばシルクロードでストップすることになった。

 当初、タビの途中で体調を崩し、諦めることがあるかもしれないとは予想はしていたが、まさかクレジットカードを失くし、金欠病に罹患して、リタイアとは情けない。トホホ。

 手持ち現金だけではこの先陸路日程をこなせない。ゆっくりと時間を楽しむ心の余裕も失くなった。帰国してカードや身分証明失効処理作業もしなくてはならない。

鉄道地図

 と言っても、現在、タクラマカン砂漠のディープな場所にはまっている。そう簡単に逃げ出せるものでもない。ホータンにも空港があり、国内線を乗り継ぎ高跳びできる可能性もあったが、運行便数が少ない上に飛行運賃がやたら高くなる。新疆ウイグル自治区省都ウルムチ(烏魯木斉)国際空港までたどり着ければ、タイまでの格安航空会社があるとわかったので、まずは1000キロの道のりを列車を乗り継いでいくことにし、ホータン(和田)駅に向かう。やはり背中の荷物がいつもより重い感じがするのは心の揺れだろうか。

 

 和田(ホータン)市と若羌(チャルクリク)を結ぶ和若鉄道は昨年開業した新鉄道路線。それまではローカルバスで乗り継ぎ移動しかできず、この行程は最低でも3日を必要とした。全長825キロ、世界第二の流動性砂漠であるタクラマカン砂漠の南縁を走る。一日一便しかない 列車で若羌(チャルクリク)まで行き、明日の列車でそこからウルムチを目指す。まだ運を使い切ってないようだ。列車チケットを手にすることができた。

列車の乗車券はホータンーチャルクリク(左)、チャルクリクーウルムチ(右)

 12時半に出発する5815列車が若羌(チャルクリク)に到着するのは真夜中。タクラマカン砂漠の南側を約10時間走る。車窓からの遠景はずっと霞んでいる。砂塵とまでは言わないが空気中に砂が混じり視界を遮っているのだろう。時々、目に入ってくる植物は、コトカケヤナギ(学名:Populus euphratica)。中国語名は「胡楊」と呼ばれ「ポプラ」の一種。幹に多量の水分が蓄えられており、穴を開けると水が吹き出す現象は「胡楊の泪」と言われる。葉は家畜の飼料となる。幹は建築用の木材や、また紙の原材料にも成り得る。 樹皮には駆虫薬の作用があると伝えられ、小枝を噛んで歯磨きにも用いられる。( Wikipediaより抜粋)

 防風林と土壌侵食の対策として線路や高速道路沿いに植林されているらしい。玄奘の時代だけでなく、古来よりシルクロードを歩く人達、そして移動生活をしていた遊牧民にとって、この植物は人々を助けて来た。何もない砂漠、そんなところでも自然の息吹に触れることができる。

コトカケヤナギ

  2等寝台車の中段の席だった。僕の上にはウイグル族の青年がいた。彼は僕が中国人と見て声をかけたが、英語で返答すると戸惑いを見せながら黙ってしまった。ただ、興味があるようでじろじろ見る。翻訳アプリを出してどこに行くのか聞くと、「新学期が始まるのでトルファンにある大学に戻る」という。ITを学んでいるらしい。そのうち彼も自分のスマホを出してきて、「日本は美しい国か」と聞く。砂漠の新疆から出たことがないらしい。「四季があり、海や山がたくさんある」というありきたりの返答だったが彼は再び遠くを見ながら黙ってしまった。ホータンに住む父親はウイグル族の警察官。兄弟は高校生の妹が一人といる言った。

 「ちょっと待てよ」。中国の一人っ子政策中国共産党が1979年に導入した人口抑制策。1組の夫婦がもうける子供の数を1人に制限した。パキスタンから中国に入る国際バスで重慶から来た漢族の親子と一緒になった。僕が「子供は2人かい?」と質問すると、8歳の娘と5歳の息子を紹介した。英語が堪能なお父さんが「2015年から法律が変わったんだ」と言ったのを思い出した。しかし、眼の前のウイグル族の彼に妹がいるというのはどういうことなのかと疑問が湧いてくる。彼の年齢は20歳で、妹は恐らく15−18歳。2015年以前に生まれたことになる。「今まで聞いた話と違うじゃない」。

 

 一人っ子政策は、主に都市部で実施され、労働力を必要とする農村部や少数民族地区では適用しなかった。ということを数年前、雲南省のハニ族の村で聞いたことがあったが、ここ新疆ウイグル自治区でも同じようなことがあったのだろう。彼にその辺のことをもっと聞いてみたいが、翻訳アプリだと限界があるし、知らない外国人が親世代のことを根掘り葉掘り聞き始めるとうんざりされそうで止めた。

寝台列車の中で

 共産党、政府が音頭をとって実施した人口抑制政策。やっぱり気になる。国家として経済発展や子沢山の貧困対策に必要だったかもしれないが、家庭の問題にまで入り込むのはやりすぎじゃないかと、最初聞いた時感じた。あまりにも急速で人為的な政策の中で育つ次世代の子供たちやそれに付随する家庭や社会の変化に僕は不安が多かった。ちょうど同じ時期、法律までは進まなかったが、タイでも家族計画を推進するNGOが、「子供は二人まで」と大々的なキャンペーンを展開、コンドームや避妊薬を無料で提供していた。国家が直接介入することはしなかったが、非政府組織がこれを代行した。僕はこの組織と一緒に山岳少数民族の村に出向いていた経験があるのでよく知っているが、日本では副作用で許可が降りない避妊注射(デポプロベラ)をアメリカからの支援によって推奨していた。

 今では、医療技術が進んで乳児死亡率も低下、また教育制度拡充によって人々の考え方も変化した。結婚をしない、子供を生まない傾向が顕著になってきた。合計特殊出生率(女性1人が生涯に産む子どもの人数)はタイで2022年で1.3人。ASEANの中で一番早く高齢化社会になると言われている。中国も2022年時点で1.09とその上を行っている。(ちなみに日本は1.26)

 これまでの政策や支援によって人口抑制策は社会に浸透し、今や少子化に歯止めがかかっていない。子は1人で十分、子供を育てることに自信がないカップルは子供を作らない。高水準の教育や高度な職業を得た女性は、快適なライフスタイルを望み結婚しない。

 先進国に仲間入りする前に少子高齢化核家族化に進む。医療、介護、年金など老後生活を支援する各種の社会保障制度が整備されないうちにこうした社会に突入することは、ますます貧富の格差を大きくさせてしまう可能性がある。そんなことを思うと、貧困対策としての人口抑制策は何だったのだろうと思ってしまった。

 

 ウイグルの青年と約一時間ぐらい、列車の中で話したが、思ったより新鮮な経験になった。途中から乗車したウイグルの女学生も加わり、僕に興味を見せて話に耳を傾けるが、内気な性格なのか自分から質問をしてこない。時折、僕の説明を青年がウイグル語で解説している。まさに異文化交流だ。

 会話に少し間ができたので、僕はSNSの中国で最も影響力のある「微博」(wechat)で「友達にならないか」と彼に投げかけてみた。反応がない。しばらくして「对不起(ごめんなさい)」とスマホで打ち返してきた。

 

 新疆に滞在している間、ウイグル問題とはなんだろうかと考えてきた。至るところにある監視カメラ、検問には流石に慣れてきたが、それらは共産党政府の行っている現象でしかない。人々は政府に対してどのように思っているのかはほとんど把握できなかった。デモや暴動などに遭遇すればはっきりするがタビで遭遇することはなかった。しかし、このSNSで「友達になれない」ということを通して、なんとなく、政府と彼らの関係性についてイメージが湧き始めた。僕のような外国人が彼のSNSの中に入ると、やはり目につきやすい。つまり、どこからでも見られているということを彼らは知っているのだ。まして、父親が警察官ならなおさら警戒するに違いない。さらに、僕は写真を取りたいといったら、拒否はしなかったが、顔を隠すような仕草をとっさにした。カメラやSNSに対して異常な反応をしていた。情報がコントロールされ写真も証拠としてどのように使われるかわからない社会に生きてる知恵だと認識できた。彼らはウイグル人で、新疆という特殊な事情で起きているだけかもしれない。中国全土がこのような状況では無いのかもしれないが、これが現実であり、僕にとってはやっぱりショックだった。列車の中では車掌が胸ポケットに小型ビデオカメラをつけて様子を伺っていた。

カメラを向けると、急に顔を背けるウイグルの若者

 日本のようにある程度「信用」がベースにある社会が、むしろ特殊であることは長年の海外滞在経験からわかっていた。「性悪説」という言葉を生み出した中国。やはり身内以外は信用できない社会。政府が「監視、管理する」ということは通常のこととして人々は受けとめている世の中のような気がした。スマホ決済やEC(電子商取引)が急速に発展したのも、お互いが信用できない社会であるがゆえに、両者に「信用」をかませるビジネスが成り立った結果であり、人々が望んだと考えるほうが納得しやすい。

 

 砂漠の闇夜の中を走る列車。遠くに見える一点の明かりが徐々に近づいてきた。若羌(チャルクリク)駅だ。すでに夜10時を過ぎている。下車すると、いつものように「どこから来てどこに行くのか」という改札口での検問があった。外国人は僕だけで一人取り残され、英語が少しわかる担当が来て、パスポートを見ながら記帳していく。街から離れた駅前はすでに人通りもなくなり、結局、警察官にタクシーを呼んでもらい、予約した宿に入った。もう明日になろうとしていた。



2023 古稀のバックパッカー㉕ ホータンでクレジットカード紛失

 ホータンの町は、心地よい。砂漠の中にありながら水辺の風景がある。夕方から柳並木の公園の中を散策した。平日にも関わらず家族連れやカップルが清涼感を満喫している。カシュガルほど大きくなく、喧騒もない。

水辺のある風景・ホータン中心部


 街を歩いていると「臭豆腐」の看板が目に入った。ウイグル料理ではないけど、急に食欲が湧き始めちょっと寄り道。「漢人がやっぱり増えているのかなー」と思いながら覗いてみる。客はいなかった。臭豆腐とは読んで字のごとく、豆腐と野菜を漬け込んで発酵させたもの。アンモニアっぽい独特の匂いがあるが僕は気にならない。そもそもクサヤが好き。臭豆腐を初めて食べたのは、台湾の夜市だった。「長沙臭豆腐」という看板があったから、恐らく中国の湖南省が発祥地だろう。新疆ウイグルまできて久しぶりに漢族の味を楽しんだ。発酵度合いはそれほど高くなく食べやすく、ビールの友としては絶妙な味わいの臭豆腐だった。腹も満たされ、午後9時になりやっと薄暗くなった道をゆっくり宿に足を向ける。

黒っぽい臭豆腐

 しかし、その時になんか嫌な予感がした。肩にぶら下げたウエストバックを見ると、サイドポケットのチャックが開いている。指を突っ込むと中は空洞状態。中にあるはずのカードケースと鍵類がない。ほろ酔い気味の脳の中に一気に血液が流れ始める。

「やっちまったな~」。

 どこに落としたのだろう。臭豆腐店にふたたび戻るが、見て無いと言われる。歩いてきた公園内の道で落とし物を探そうと下を向くが、頭の中が同時に今後の対応を考え始めているので焦点がぼけ、上辺だけなぞっている感じがする。他人から見れば急ぎ足で手当たり次第に動いて滑稽な様子に見えただろう。陽も落ちて暗くなり捜索を諦め、勘違いして「宿に置いてあるかもしれない」と期待しつつ部屋に帰った。

 バックの中やベッドの下をくまなく探すが見つからない。一気に疲れが出る。紛失届けを出すためにホテルを通して警察に連絡した。この宿に連れてきてくれた警察官が対応してくれる。「街中に張り巡らされた監視カメラがあるので、くまなく再生すればわかるはずだろう」と淡い期待を持っていたが、対応が鈍い。もう誰かが手にしているはず。見つかる可能性は少ないだろうと思い始める。「どうして紛失したのか」と聞かれ、「盗難ではなく、落としたと思う」と答えた。公園あたりを歩いているときに写真を取ろうとバックを右肩から左肩にかけかえたり、地面に置いたり、ぶらぶらさせていたのを思い出す。そして、落としたと思ったほうが、自己責任になり、心のざわつきを落ち着かせてくれる。

 

 実を言うとクレジットカードを失くしたのはこれが初めてではない。数年前に、日本からタイに到着したばかりのドンムアン空港で経験した。荷物とともに満員のエレベーターに押し込まれた。そして腰につけていたバックからクレジットカードケースだけがどこかに行ってしまった。チャックが外れていたのでこれは確実に盗難だった。空港警察に行き書類を届けた経験がある。その経験から次にやることはわかっていた。カード類の使用停止連絡。

 

 まず、部屋に戻り、紛失したものの再確認。日本のクレジットカード3枚、デビットカード1枚、タイのデビットカード1枚、タイのIDカードと運転免許証等の番号確認。パスポートと現金は中国入りして、肌身放さずいつもポケットに入れていたので幸いにも手元にある。そして日本のカードの使用停止作業に入る。インターネットで日本にいる子どもたちとやり取りしながら、使用停止の届けを行った。一部のカードは電話対応しかできないので国際電話にも対応した。タイのカードに関しては、タイの友人に連絡して停止手続きをお願いした。 

 ただし、全てのカードを停止すると、手持ちの現金だけではこれから先、敦煌西安昆明ラオスを通過してタイのチェンライまでは到達できない。陸路だと最低10日は必要だろう。そのため電子決済用にGoogleに登録してあるカードの1枚だけは、タイに帰国してから停止することにした。それまでの間、誰かに利用されるリスクは伴うが、現金だけでは物足りない中国国内でのホテル決済や移動交通機関のチケットの電子決済の必要性があると考えた。そんな余裕ができたのも、以前の紛失経験があったからだろう。

 

 カード停止後、次に重要な決断をしなければならないことがある。それはこの古稀バックパッカーのタビを無理しても継続するか、それとも途中で断念するか。インドからここまで3週間以上歩いてきたが、体調はまったく問題なかった。通常、尿酸値が高いために、痛風の心配があったが、このタビでは毎日平均3−4キロは歩いていたし、アルコール飲酒の外的制限に遭遇していたので、その発症気配も感じなかった。腸内細菌を多種持っているため大きな下痢もなかった。精神的に中国に入って自由に動けない辛さを感じたぐらいだ。

 

 できれば玄奘が帰途に通った道にそって敦煌西安まで目指したいと言う気持ちは強かった。その可能性をゆっくり検討した。ホータンからチャルクリク(若羌)までは昨年開通した鉄道で移動できる。そこから敦煌までは青海省甘粛省へと省を超えなければならない。鉄道もバスも無い。現地で情報を得ながら山越えをしなければならないことは事前にわかっていた。もう一度、インターネットを開いて調べてみる。高速道があり貨物トラックは走っているようだが、バスなどはない。日本のようにヒッチハイクも考えたが、ここ中国では可能性は少ないだろう。それでなくても監視が厳しい上に省境では検問が必ずあるだろうと思うとそれだけで面倒くさくなる。タクシーをチャーターするしかなさそうだという結論に到達する。時間、お金がどうしてもネックになる。

 今後の移動の問題を考えてみた。西安まで行っても、まだ先がある。5年前にタイから西安までは陸路で移動しており、ある程度はどんなタビになるか予想できる。「タイまで陸路で帰る」という目標のためには、かなり急ぎ足で線と線をつなぐタビになりそうだ。本来の目的である「玄奘の通過した風景を眺めながら、コロナ後に変化している中国社会を感じながら人々の行動をウォチィングする」タビにすることにはならないだろうと思い始める。

 

 「途中退却」にすると決心したのは、すでに曜日が変わった午前1時になっていた。飛行機のお世話になるしかない。ここから一番近い国際空港は1000キロ離れた省都ウルムチにある。そこからタイのバンコクまでのチケットを探すと三日後の8月29日に格安チケットがある。といっても片道4万円するが、まだ停止していないクレジットカードなら電子決済で購入できる。早速予約を入れ、搭乗券を確保した。海南航空ウルムチ(北京経由)バンコク着。

 飛行機が決定すると、その次はウルムチまでたどり着く列車を探す。明朝ホータンからチャルクリクまで列車で行き、一泊後、ウルムチまで再び列車で行く。タクラマカン砂漠の東南端に到着、その後、北に向けて横断路線に乗る。なんと2日の行程。新疆ウイグル自治区は広い。なんとか、変更計画の目鼻がたったのは午前3時。それにしても、昨夜からインターネットを駆使しての作業だったが、これができたのもタイから持ってきたローミングができるSIMカードのおかげだった。中国国内でSIMカードを購入していたら、GoogleやYahooに繋がらない。電子決済やドライブに入れていた情報を活用することもできなかったと思うとゾットする。

予定変更:ホータンからチェルチェンの隣りにあるチャルクリフに向かう。その後敦煌に行かず、ウルムチを目指す

 このまま直ぐに眠りにつくことができるかと思っていたが、疲れも重なっており5分ぐらいで寝てしまった。起床したら宿を引き払い、ホータン駅に向かい、どんな座席でもいいからウルムチまでの列車チケットを購入、午後までには列車に乗ること。もう少し長く滞在したいと思っていたホータンとはあっという間にお別れとなる。(つづく)









 

2023 古稀のバックパッカー㉔ ホータン(和田)探訪

 ホータンはオアシス都市。町は川が流れ、公園には水辺の風景がある。が、道路に駐車した車には砂埃がかかっている。やはりここは砂漠の中にあるのは確かのようだ。町を歩くと日本の黄砂のような風景が普通にある。

ちょっと駐車している車に砂埃

 公共バスに乗って、仏教に関する資料を知りたいとホータン博物館を訪れた。11世紀にイスラムが入ってくるまでのホータン(于窴)王国は長い間、仏教王国だった。パキスタンのクシャーナ王朝のカニシカ王古稀のパックパッカー⑨)と繋がっていたと言われている。一時は、カニシカ王自身のホータン出身説まであった。1−3世紀頃の初期時代、ここの仏教はどんなだったのだろう。資料によると上座部仏教に近かった説一切有部(せついっさいうぶ)ではなかったかと説明されている。(説一切有部は、部派仏教時代の部派の一つ。紀元前1世紀の半ば頃に上座部から分派したとされ、部派仏教の中で最も優勢な部派であったという。参考:Wikipedia

 西暦 644 年。ここに数ヶ月滞在した玄奘はその間、古代コータンの都・ヨートカン(約特干)を訪れ、『大唐西域記』に「伽藍百有余所、僧徒五千余人、並びに多く大乗法教を習学す。王甚だ驍武にして、仏法を敬重する」と記録している。西暦7世紀はすでに大乗仏教の教えに変化していたのだろうか。そして当時、ここではクワを栽培し蚕を飼育し、絹織物も生産され、他地域への輸出品となっていた。まさにシルクロードの名にふさわしい。

菩薩頭。和田博物館収蔵

 午後から、「和田玉市場」に出向いてみた。

 南にある約海抜4000m上流の崑崙山脈源流から和田川が流れ、そして川はタクラマカン砂漠の中に沈んでいく。この川では古くから「和田玉」が採れる。古い河床またはその両側の河川敷に分布しており、地表に出ていたり、地下奥深くにもぐっていたり、河床に散在しているらしい。

 毎年秋に河床が低下すると、数万人から数十万人の人が和田玉を探すため、掘ったり、拾ったり、河に入って石をすくったりするという。うまく探し当てれば一夜でお金持ちになる人もいるし、何ヶ月経っても全く収穫すらない人もいる。何れにせよ誰でも採取することができる。

和田川

「玉」とは翡翠。妻に結婚指輪も渡してないような僕は、ほとんど宝石について門外漢なのだが、翡翠に関してはすこし学んだことがある。というのは、今から数十年前にタイ最北端のメーサイという町で宝石商をやっていた許さんという中国系タイ人との出会いが始まりだ。日本語を知りたいと訪ねてくるようになり、翡翠の話をよく聞いた。「Jade(ジェイド)」と言われる翡翠の世界的産地のミャンマー。国境にあるメーサイは流通経路としてたくさんの翡翠商売人が住み、許さんも大きな店を構えていた。

 彼がよく言っていた「翡翠には硬玉(ジェダイト)軟玉(ネフライト)の2種類があり、ビルマミャンマー)で産出されるのは硬玉。その中でも緑色のものが価格も高い。一方、軟玉として有名なのは中国のホータン。」という地名を覚えている。そして、翡翠の見分け方として、光を当てる方法を教えてくれた。「懐中電灯で翡翠を光にかざしたときに、内包物や色むらが少なく、透明度が高いほど価値が高くなるそうだ。しかし、翡翠は鉱物のため、どれだけ透明度が高いものでも、必ず色の濃淡や内包物がある。光に透かしてみて全く濃淡のない石や、気泡がある石は、天然翡翠ではなく人工石の可能性が高いから気をつけろ」と言っていたのを思い出す。 

 「和田玉」はネフライト。鉱物的に異なるジェダイドと比べ価格的には低いが、古代中国では健康、長寿の石として龍などが彫刻され、貢物として珍重された。とりわけ和田で取れる白色のネフライトは「羊脂玉」として、当時は最高級品としてシルクロードを通って長安に運ばれた。

 ホータンにはこの翡翠専用の市場がある。まさに一発屋が集めた石の売り買いをする場所だ。売り場にテーブルを持ち、大量の原石を並べる店以外にもポケットに石を入れた人々が、路上で品定めをする人たちを取り囲み、懐中電灯や小型顕微鏡で品質を見ながら交渉をしている。ここは公設市場となっているが、ふらふら歩いている僕にも近づいてきてポケットから原石を取り出して見せる。言葉がわからないのとやっぱ見慣れてないので目利きができず笑って誤魔化すが、まさに誰でも参加できる自由市場という雰囲気がする。

和田玉市場。多くの人で賑わっている。

 夜には、「和田夜市」という食堂街に出向く。羊などをベースとした新疆料理に並んで海鮮料理店がたくさん出店している。海から世界一遠いのではないかと感じるこの地域、何千キロも離れているのに魚介類を店頭で焼いている。食べ物には糸目をつけない中国人の胃袋と中国国内の鉄道や高速道路網の発達を感じざるを得なかった。僕はわざわざここまで来て魚を食べなくても良いと相変わらず安い麺類だけを食べる。もちろんビール付きです。

和田夜市。何千キロをタビした牡蠣なども並んでいる。

2023 古稀のバックパッカー㉓ タクラマカン砂漠に沿ってホータンに向かう


カシュガル(喀什)からホータン(和田)へ

シルクロード

 監視の目に悩まされたカシュガル。でももう一度行きたい街であることは確かだ。中国というよりエキゾチックな雰囲気に魅了される。漢人の国内観光客もウイグル貸衣装を身につけ、写真を撮ったり、異国情緒ある街並みをぶらりと歩いていた。買い物型から体験型の旅行が中国国内でも展開し始めている。漢民族がここの民族文化にもっと触れることが増せば観光を通して人々の『多様性の尊重』が進み、理解し合えるかもしれないと思いながらカシュガル駅に向かう。

カシュガルからホータンへ

 列車はカシュガル10:43発、ホータン到着15:30のT9531号。10時といっても北京時間だから3時間の時差がある。駅に向かって宿を出た時は薄暗かった。


いよいよ新疆ウイグルの動脈の「天山南路」を外れ、玄奘が通った「西域南道」に入っていく。目指すはホーテン(和田)。その距離は488km。世界第二の流動性砂漠であるタクラマカン砂漠の南縁に位置する。『流動性』という単語は、この砂漠が時代によって動き地形が変化しているためだ。居住地だけでなく、川や湖も移動している。井上靖の「桜蘭」でその様子が描かれている。春から夏にかけて起きる猛烈な砂嵐をはじめ、常に風の力によって砂が舞っている。タクラマカンウイグル語で「一度入ったら出られない」という意味だそうだ。昼は40度、夜には零下20度にもなる。この砂漠に沿って歩き始めるのだと思うと、洋の東西を繋げた過去の歴史と壮大な自然を目の前にしてワクワク感が湧いてくる。

 列車の車窓に入ってくる景色は、喜多郎の曲「シルクロード」にあるゆったりとしたイメージとは異なった。右手に広がる崑崙山脈、そして左手にはタクラマカン。広大な砂地がどんどん拡がっていくが、砂が視界を遮る。日本の黄砂のような現象がずっと続く。

砂によって視界が悪い

 砂で線路が埋まらないように線路脇植物のアシで防砂・流砂処置が工夫されている。湿地に生えるアシが、乾燥した砂漠でも大きな役割を発揮し、「流砂固定」の材料となっている。アシの茎を乾かし砂丘に運び、1メートルの正方形を作り路線の両側に置く。「草方格」と呼ばれる。その敷設は鉄道や道路建設と同時に行われる。草方格が砂丘に敷かれていると、砂が吹き飛びにくくなるためだ。(参考:Sicence Portal China より)

アシによる「流砂固定」

 列車は定刻にオアシス都市のホータン駅に到着した。ここは漢・代の中国では「于窴(うてん)」として知られていた仏教王国だった。西暦 644 年。玄奘は、ここに数ヶ月滞在したと言われる。出国禁止の中をインドに向かい、唐の太宗からの帰国の許しが出るのをここで長く待った。彼が持ち帰った仏典の数は657部、馬を利用したが、この砂漠にはいり数十頭に及ぶラクダのキャラバンとなった。僕は快適な列車のタビになったが、移動だけでも大変だっだろうと広大な風景を見ながら想う。

 町外れに大きく建てられたホータン駅から移動中にアプリで事前予約したホテルに向かう。ところが、僕が予約書を提示すると、「部屋がない」と言っている。説明が中国語でされるが理解できない。「宿泊できない」のだろう。今回のタビで二度目(最初はパキスタンペシャワール)のドタキャンだったが、まだ日も長いのでわりと落ち着いていた。ペシャワールの時は一時的にテロ情報から一斉に外国人は止められないと説明があったが、今回の受付は「部屋がない」と一点張り。マネージャーを呼んでもらい、予約番号や日時を丁寧に説明した。翻訳アプリを通して少しずつ内容がわかってきた。「このホテルは外国人を宿泊できる資格がない」とのこと。高級ホテルではないが、6階建ての三つ星ホテルとされており、価格は3000円程度だった。Tripという旅行予約Webサイトも当てにならない。なんだかんだと言っているうちに、このあたりを管轄にしている警察が入ってきた。彼は、ホテルのコンピューターを操作しはじめた。そして、「このホテルには外国人は泊まれない」という。警察官が確認したのは、『外国人の宿泊者を登録するときに使うネットシステム』の登録末端がこのホテルにあるかどうかだった。中国国内のすべての宿泊施設は外国人を泊めるときに、このシステムを使ってパスポートにある顧客データをすぐに国に登録しなくてはいけないという法律があるようだ。それができない。カシュガルの青年旅舎でも直ぐにチェックインできなかったのはこのシステムを通して前日のチェックアウト処理がされてなかったことが原因だったことを思い出した。この国の外国人の移動はリアルタイムですべて管理されているこのシステムのことがだいたい理解できるようになった。中国語で外宾(wàibīn)と内宾(nèibīn)というらしい。外宾というのは「外国人客」。内宾で「国内客」。予約サイトに内宾と書かれていれば泊まれないことが確認できるらしい。結局、警察官が、近くで宿泊できる宿を紹介するということで落ち着いた。「ただし、このホテルより安いところ」と条件付きの要望をお願いする。彼の車で連れて行ってもらう。無料。恐らく訳のわからない外国人へのサービスだろうが、こんな警察の利用方法もあるのだと考え始める。

予約したが宿泊できないホテル

 ところで、登録末端をここ程度のホテルなら設置するのがなぜできないのだろう。もっとチープな青年旅舎の多くは海外向けの宿泊予約アプリには登録されているのに。旅館側も外国人を泊めればお金が入るので泊めたいはずだ。何か基準に満たないのだろうと勘ぐってしまう。そういえば、対応を待っている間にホテルのロビーの奥の部屋に「卡拉OK:カラオケ」看板を見かけた。おそらくこうした施設があるところは登録させないのだろう。共産党政権は特に外国人に対して見せたくないものには蓋をしたがる。

ウイグル人女性(列車の中で)

 夕方になり、ホテル周辺をぶらり歩いてみる。駐車してある車は砂を被っている。やはり砂漠の中にある街だと実感する。公務員や警察官などは漢人だが、街を行き交う人の顔はウイグル人。大きな街で、人口は40.89万 (2018年wikipedia)のうち90%を超えるウイグル族と言われている。興味ある資料を見つけた(西日本新聞)。ホーテンの漢民族ウイグル族の人口増加率が下がっている。2019以降の人口統計は発表されなくなったが、増加率は漢人に比べ大きく下がっていると記事には掲載されている。この数値はウイグル族の人口抑制が意図的にされているのではないかと予想される。

民族別ホータン人口増加率(西日本新聞より)

 さて、明日から定番の博物館訪問、そしてホーテンといえば有名な「白い翡翠」の現場を歩いてみる。



2023 古稀のバックパッカー㉒ カシュガルの街で感じた中国社会

 僕のタビは基本的に個人旅行。もちろんグループや団体で楽しく、美味しいものを食べる旅行も嫌いではない。が、線と線をつないで対象物となる観光地または有名店に行く(行った)のが目的となると、人々や生活に触れたりすることが少なく、時間にふりまわされ、時には退屈になる。

 ひとり気ままに歩くことは、時に自分の感性に触れることができる。異文化の中にマイノリティーとして身を置き、これまで自分が培った価値観や刷り込まれた社会システムへの気づきにつながる。新しく出会う社会ルールや人々の行動にどうも興味があるようだ。時には否定的になり、時には肯定的になり、自分が持っている社会への適応能力や意識の幅を確認できる。タビはすこしキツイこともあるが、自己判断し、生きている実感を肌でつかもうとしていることを納得できればこの年齢になっても楽しい。タビは人生の縮図のように思える。

管理社会

 こんなタビをインド・パキスタンでは楽しんできたが、国境を超え中国・新疆ウイグルに入ってから、バックパックを背負ったひとりタビにはすこし息苦しい気配を感じるようになる。タビは本人と対象者あるいは対象物の関係なのに、『第三者が割り込んでくる感覚がある』と言ったほうがわかりやすいかもしれない。何かしら目障りなのだ。建物に入るのにチェック、移動の度に身分証明、パスポートを常に手にしておく必要がある。僕一人が対象ではなく中国人たちもやっている。ウイグル人中央アジアの顔つきが違う人の方がもっと厳しいようにも感じる。これが社会ルールとなる。自由が効かないと思うのはこれが原因だろう。宿で出会った他省から旅行できた中国人(漢人)青年は、「新疆だからね」と言う。僕も初めての中国ではない。コロナ前には雲南省から遼寧省まで縦断したが、以前はもっと楽だったような気がする。

 この社会ルールが、中国共産党によってここ新疆ウイグル自治区を維持する基本的な姿勢だろう。管理、監視体制。共産党を通して漢人が民族、宗教が違うウイグル人たちを支配する手段に見える。『我々の法や制度を教えてやっている』という匂いが漂う。それに対する抵抗や反対を起こさせない予防措置が強く働いている。

路上での検問

 こんな光景を駅で見た。列車のチケットを購入するために長い列ができていた。そうすると横からウイグル人と思われるおじいさんがカウンター前に割り込んでチケットを買おうとする。チケットカウンターの漢族の女性駅員は列に並んだ人へのチケット発券にコンピューターを打ち込んでおり、取り合わない。しかし、何度も何度もおじいさんは話しかける。何を言っているか分からないが、引き下がらない。すると椅子から立ち上がり、おじいさんに向かって大声で怒鳴り始めた。ウイグル人を指さして、『何度も言ってるでしょ。皆並んでるの。順番を守ってよ』。中国語は解らないが、僕にはそう聞こえた。そして『これだからウイグル人は困るのよ』と思っている様子が顔にありありと出る。

 列車の中ではウイグル族のおばちゃん達がお菓子を6人席テーブルの上に広げて、ぺちゃくちゃ食べながらゴミを散らかしている。通りかかった車掌が来て注意した。ウイグルのおばちゃんは「ごめんね」ではなく、北京語で「謝謝」と言って気まずそうに片付けた。「中国人のあんたらだって、海外に出たら色々なトラブルを起こしているだろう」と思いながら複雑な心境になる。確かに、日本人感覚の僕から見ても迷惑だなと感じるが、インド・パキスタンを歩いてきた僕はそんなにきつく言わなくていいと思う。街を歩くと、確実にわかることはウイグル人漢人の顔つきの違いが一目瞭然だ。同じように暮らしているが、職業、住居エリア、社会行動にも違いを感じる。

駅でのチケット購入。ウイグル人の割り込みあり。

 単純には言えないがマスコミ等から流れるウイグル問題を見聞きしているので、つい「弱いウイグル人、強い漢人」という構造となり、弱者の肩を持ってしまうが、これを前提にものを決めつけないほうが良いだろう。漢人ウイグル人も皆、自分たちが中心という意識は強い。今の共産党政権は「管理しないと何をしでかすか分からない」が前提だろう。国が大きくなればなるほど、監視を徹底的にしようとする。経済発展や情報機器の発展はそれを助ける。そんな状況に遭遇することが多いのがどうも僕のタビを憂鬱にさせているのだろう。

タビの言語

 次に言語の問題がやはりどうもタビの障害となっている。幸い、日本人の僕には「漢字」という武器があるが、手間がかかるし僕の簡体字能力もおぼつかない。これまで歩いたインド・パキスタンに比べるとここでのコミュニケーションはスムーズにいかない。街に出るとすこし苦労する。ウイグルの人から声を掛けられることは少ないので、こちらから英語で話しかけるがどうも引き気味だ。原因は単に僕がウイグル語も中国語も使えないことにあるのだが、簡単な英語でのコミュニケーションがなかなかできない。それと感じるのは、言語の問題より見ず知らずの人と話したくないような傾向を見ることだ。ましてや彼らからすれば僕は漢人に見える。

 農村部よりは都市部の人、一般的な労働者よりはホワイトカラー、年配の方より若者に英語が通じる印象があるので、学生や若い人を狙って声をかける。宿泊にユースホステル(青年旅者)利用するのはそんな理由もある。大きな街にしかまだないが、若いスタッフの何人かは英語で対応してくれる。僕の印象では、大学生と話したが、思ったより英語ができないという感じがした。彼らは学校でも英語を習っているそうだが、日本と同じように日常社会の中で使うことが少ないのが理由だろう。

宿泊したカシュガルの青年旅舎。若いスタッフは英語を話す。

 日本でも最近の若者は外来語を使うことが多い。日本語はカタカナで表記するので見分けやすい。(といっても、最近はカタカナ語が氾濫して、意味不明のものもあるが…)

英語から中国語になった単語がある。若い人たちとはそういう言葉を使えば、ある程度理解し合えるのではないかと考えた。教えてもらうと、どうも違う。マクドナルドは麦当劳 mài dāng láo(マイダンラオと聞こえる)、スターバックスコーヒーは星巴克 xīng bā kè(シンバークと聞こえる)中国語は英語の音を意識しながらも意味を重視した翻訳をしているらしい。「音訳」といっても首をかしげたくなることも少なくない。だから日常使っている英語由来の単語との関連性があまり持ちにくいのかもしれない。

 翻訳といえば玄奘が持ち帰った仏教経典。サンスクリット語で書かれた仏典を彼はどのように翻訳したのだろう。「般若心経」をはじめ、彼が翻訳しているが、中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前の鳩魔羅什らの漢訳仏典を旧訳( くやく )、それ以後の漢訳仏典を新訳( しんやく )と呼ぶと言われている。それらは音訳より言葉の意味を重視したものとなっている。仏事では僕ら日本人はサンスクリットから漢語に訳された漢文で読むがその意味はほとんど理解できず、現代和訳に頼るしかない。やはり難しい。

店の看板見ながら夕食を決める

 漢字世界の影響を受けた日本語がどの程度役立つかは、疑問だが少なくともタビの食事にはアラビア文字をベースにした中央アジアの言語より役立っている。炒:炒める、蒸:蒸す、炸:揚げる、煎:煎り焼く、烤:焼く、焼:煮込む、拌:和える、などの単語と材料名を覚えればある程度の予想ができる。まあ、通常行く安食堂では目の前にある料理を指差すだけで済むのだがメニューを見るとこんな字を見ながらオーダーできる。カシュガルまでイスラム圏内を歩いていたので、久しぶりに豚肉を食べたかった。麺類と豚肉を頭の中でイメージ。汁でなく「拌」という単語に注目。「过油肉拌面」( 油豚麺)を注文。出てきた料理は下の写真のようなもの。具と麺が別の皿に分けてあり、ミートソース・スパゲッティーのような感覚で和えて食べる。ちなみにビールは「啤酒 」。お会計は全部で30元。レシートにはウイグル文字も表示されていた

今日は过油肉拌面啤酒を注文