2025 古稀のバックパッカー 続編 最終回
中国・新疆ウイグル自治区からスタートした「古稀のバックパッカー・続編」を終えて無事、自宅があるタイ、チェンライまでたどり着いた。

インドから歩き出したのは2023年8月。パキスタン・カラコルム峠を越えて中国タクラマカン砂漠まで到達したが、トラブルに会い、途中挫折。2025年7月、ウルムチから目的地「長安」まで再挑戦、なんとか三蔵法師・玄奘の帰途をテーマとしたタビは目的を果たした。そしてタビは継続、中国国内を南下、ラオスを通過しタイのまで陸路で帰還した。
タビ自体は約2ヶ月程度だったが、69歳の誕生日から始まり、71歳の誕生日になるまでの2年間の時を費やした。中国、インド、パキスタンのコロナ以降の変動する社会情勢に直にふれる機会でもあり、見たもの、聞いたものを整理する期間でもあり、刺激的な時間となった。
63歳から第三の人生としてタイの田舎に住み、自由な時間を利用して農場つくりやNGOのお手伝いをしていたが、古稀を迎えるにあたり、幾分マンネリ化を感じ始めていた。「もっとやりたいことがあるはず」と節目を迎えるに合わせてタイから飛び出してみた。

第一歩は、宗教。とりわけ仏教についてもっと歴史や考え方を知りたいことだった。高齢化していく自分にとって、心を落ち着かせてくれる方法として興味を覚えていた。西遊記でおなじみの玄奘三蔵の「大唐西域記」は、僕にとっての旅行書のような存在になった。1400年前の出来事。仏教遺跡を訪れ、自然環境、そこで暮らす人々の生活に触れてみたいと思いが募ってきた。日頃、過去や将来に取り憑かれ、自分の心に波風をたたせ、せわしなく今を生きる。壮大な自然と悠々と流れる時間空間を感じ、ちっぽけな自分を笑いながら見つめる余裕を持ちたかった。途中、資金を無くすというトラブルに遭遇、2023年のタビは急遽帰国となったが、今回なんとか到達することができた。「2025古稀のバックパッカーの続編①」でその時の心境を綴っている。
『肉体的、精神的疲れもあり、タビの継続は諦めていたが、少しずつ「続き」のことが頭の隅で蘇り始めた。というのも、この時期を逃すとビザ取得が困難になり、体力の低下で不可能になるかもしれない。コロナ以降ひしひしと感じる不確実性の時代。荷物を背負って、「一人で歩く」事が気合だけでは難しい。足腰が弱ることの心配もあったが、視力が確実におとろえてきている。現代のタビにはスマートフォンが欠かせない。小さい画面を眺めづらくなってきた。そしてスマホの操作手順を忘れてしまう記憶力の弱さが気になるようになった。このまま行くと、ますますタビが不自由になるのではないかという「焦り」にも似た思いが湧いてきた。』
これまでお遍路、スペイン巡礼、南米横断等。いろいろなタビをしてきたが、さすがに今回は勇気と決断が必要だった。高齢、健康などが頭をよぎった。特に、物忘れや集中力の低下に伴って思わぬ事故に合うのではないかという心配。若かった頃とは違う身体ゆえに、もしものことがあれば、あとに残された人への指示を万全にすることは最低の義務と考えた。
僅かではあるが、タイと日本に資産がある。日本国内のモノは、すでに家族内で話し合い済みなのでおそらくもめることは無いだろうが、タイ国内のモノは、日本に持ち帰ることはせず、タイ人の友人たちが日本の家族と相談しなくてもスムーズに処理できるように、寄付など遺産処理の意思をタイ語で明記した。ずっと前から考えていたことが文章化でき、頭もスッキリした。タビ立つ前に揺らいでいた気持ちが、これで本気モードに変わった。「あれもこれもしたい」と言う本気ではない。「自分は何をしたいのか」と明確にし、「人生とはこんなもんだなー。人生はタビみたいだな。」というゆっとりした気持ちをつくることだった。
もちろん、中国国内での事故に備えて、旅行保険にも入った。これまでのタビではそんなことも考えなかった。命は成り行きなので仕方ないが、お金や余分な迷惑を他人にかけないことも義務だろうという気持ちがそうさせた。「立つ鳥跡を濁さず」。

タバコもビールも飲む身としては、あまり健康について語ることはできないが、1日一万五千から二万歩は歩いた。砂漠の中では熱中症になりかけたが、ほぼ毎日続けられた。そしてこれが健康を維持させたと思っている。毎夕、ビールを飲み、そのまま睡眠。毎朝5時には目覚め、朝食を求めて朝の散歩が日課となっていた。そして思うように行動できなかったり、イライラした時は、タバコを一服し呼吸を整えた。
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タビの目的は、2つあった。一つは、「玄奘のタビ」と名をつけたように、三蔵和尚が立ち寄った場所を歩き、当時の時代背景を学び、地理的状況を体感し、仏教を知ることだった。
年齢を重ねるにつれて仏教への関心は高まっていたが、今回は他宗教との関連性にもいくつかの示唆を得ることができた。遠くはヨーロッパ、中東、北はモンゴル、インド。とりわけ7世紀以降、広大な交易ネットワークを支配したイスラム教に注目した。イスラム教は商人の宗教とも言われる。そして、彼らは絹や香辛料といった商品と共に、自らの宗教と文化をも各地に運んだ。
基本的にイスラム教徒になるために必要なことは、一つ。神の前で、信仰告白を唱えるだけ。身分制度が厳しかった当時の社会において、このシンプルさと平等性は、多くの人々の心を強く惹きつけた。シルクロードの繁栄は、まさにイスラムの普及を抜きには考えられれない。
海で囲まれた島国日本のように天然の要塞は無い広い西国。数々の民族が行き来し、様々な宗教や文化が交わるだけでなく、時には戦いの舞台にもなり、栄枯盛衰の歴史が刻まれている。
自然環境も厳しい広大な地で、なぜ仏教は衰退せずに生き残ることができたのか。
タビを通して、仏教の教えの基本的なことは理解することができた。自因自果の因果の道理に基づいて、自分の運命のすべては自分の行いが生みだしたもの。それ故、「苦」の原因を突き止め、解脱(げだつ)を目指す修行がある。仏教は創造主や絶対神がいない。たくさんの仏像は見たが、神ではない。瞑想を通してブッダが修行する姿が仏像であると、僕は理解している。「自業自得。全ては自分にある。」という教えに惹きつけられる。心を鎮めることに集中する。それゆえ敵を作らず、争いは起こさない。インドから始まりここまで拡がったのは、どんなに貧しくても、どんなに苦しくても原因は自分にあるという教えを受け継ぐ人たちが必ずいたからだと思う。玄奘を始め、数々の高僧達の熱心な布教だけではない。敦煌の莫高窟にその歴史を見た。1000年以上にわたり造営された仏教石窟群で、単なる仏教美術の集積地ではなく、仏教の伝播の変遷、そして修行の場として、歴史そのものを物語る貴重な遺産だった。

古稀のバックパッカーもある意味では、自分なりの「修行」だったかもしれない。齢を重ね、身体だけでなく、世の中の「苦」を見てきた。一方、欲も少なくなり、幸せとは何かを考える時期(林住期)になってきた。タビの間、毎日の日課は、「今」に集中し、過去や未来を考えずに動くことだった。爽快な気分になるのは、周りに振り回されずに、自分が決めたことをやれた時だった。人生を悟ったようなことではないが、毎日変化する異国の環境の中で、気持ちの持ち方を変えるというヒントを得ることができた。
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タビでの2つ目の目的は、中国の若い人との出会いだった。
コロナ以降、中国の経済は思ったより回復していない。しかし、大国となった一挙一投足は、周りのアジアだけでなく、世界に影響する時代になった。しかし、70歳になった僕の中には、依然として古い中国が残っている。特に経済発展以前の文化大革命、天安門事件など政治が国民を動かしていたイメージがこびりついている。そんな中で、マスコミを通じて流れてくる情報は、「愛国精神」「力こそ正義」をベースとし、「大きいことはいいことだー」のように聞こえ、嫌悪感を感じる。
共産党の声ではなく、民の声はどうなんだろうと言う疑問が常に漂っていた。10億を超える人民がいるので、知る由もないが、未来を見据える中国の若い人たちに接して、その雰囲気を感じ取りたかった。
タビは基本的に青年旅舎を利用した。一緒にタビしたり、お宅訪問までできるような関係を持った。いろいろな話は、直接英語でしていたが、政治や社会状況などの詳細な話は、スマホの翻訳機能が助けてくれた。便利な世の中になった。
ウルムチで出会ったW君が語った言葉は簡潔で印象的だった。「僕ら若者は平和を望んでいるんだよ」「大きな自由(共産党?)はどうであれ、小さな自由がほしい」日常生活の中で安心して暮らし、政府、行政が助けてくれることを望んでいる。「面白いことに街中監視カメラがあり、警察は時には失くしものを探してくれたりするんだよ」と笑いながら話し、生活感あるサービスを行政がすれば、小さな自由につながるのかもしれないと説明した。
一人っ子政策で30歳。「結婚を考えているの」と聞くと、「難しい」とつぶやく。男女比率。統計では結婚適齢期の男性が女性より3千万多いとか。そして、とにかくお金が必要という。結婚する際、男性側が用意する「三大件」(マイホーム、車、結納金)が重い負担となっているとか。笑いながら半分諦めたような表情。「親が金持ちならねー」とWくんは言葉を濁した。(続編⑥)
青海湖を一緒にドライブした青年たち。若者の就職難。と言っても今すぐ困るわけではないが、就職せずに節約型のタビをしていた。
昼食の時間、お土産屋の前で彼らはゆっくり歩き、各店で立ち止まり試食をする。駐車場まで近づいたところでUターン。また試食を始める。日本人の若者ならできないだろうが、彼らはあまり気にもしていない。体型や顔つきも似ているが、調和や遠慮、「他人の目を気にする」日本人とはやはり違う。彼らの行動や振る舞いは、日本人よりむしろアメリカ人に近いかもしれないと思う。やはり大陸で生き延びるためには、自分を主張し、他人が被害を感じないと判断すれば行動する。
彼らと寝食を共にし、そこで遭遇する振る舞いを見ることが、僕にとっては観光地をまわるより面白かった。僕のタビにも余裕が出てきたようだ。(続編⑮)

貴州省では、東大を目指している高校生と出会った。
I君。高校を卒業したばかりで、友人との卒業旅行で広東から訪れていた。学校での成績が良いらしく、将来は日本の東大で学びたいらしい。最初は冗談かと疑ってかかっていたが、すでに親類にも東大で学んで者がいるらしく、進学の手続き方法は熟知していた。彼に、「どうして東大なの」と質問すると親たちも日本留学に賛成としているし、本人も国際感覚をつけたいとのこと。中国国内の一流大学に入るためには鮮烈な受験競争があり、点数を取るには東大の方が楽とか?
とはいえ資金を出す親の世代が今の中国をどう見ているのかというヒントになった。2023年ゼロコロナ政策解除を契機に、不動産危機、地方政府が抱える巨額の債務、若年層の失業率の高さ、内需の伸び悩みと、八方塞がりの状況が続く。今の中国は不透明感、不確実性がある。とりわけ富裕層の人たちの間では国外脱出の道筋を探っているとの声を聞く。留学イコール移住とは限らないが、そんな先まで考えている人が少なからずいることは確かだった。(続編㉔)
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今を暮らす中国人たちに出会えたことは、興味深い。華やかな権力者が作り出す政治世界の話でなく、経済的にも豊かになった国民たちがこれからどのような社会に向かおうとしているのか、という示唆を感じると同時に、そのエネルギーはとても大きい。そんな世界とのふれあいは、私が残された人生をどのように過ごすかという「修行」になったようだ。
タイに帰国し、頭の中を整理しているが、一つだけあげるとすれば、『日本人が持つ「生真面目さ」に中国人のような「大胆さ」、そしてタイ人のような「気楽さ(いいかげんさ)」を受け入れると生きやすく、もっと幸福感を体得するだろう。』バランス感覚が必要だが、好きなように生きてみよう。

(了)
2025古稀のバックパッカー 続編㉚ ラオス国境からタイ国境へ

早朝、6時からモーハンのバス停車場でラオス入りする国際バスを待つが、バスは一台もない。チケットカウンターの上にあるバスの運行案内を見るとモーハンからの行き先と料金、出発時間が書いてあるが、ほとんどに白い紙が張られているから困ったもんだ。下から2番目がおそらく距離や価格からホイサーイと予想するが、係員がいないので確証には至らない。停車場には誰もいない。出発時間が9時と書かれているから、ひとまずホテルに帰り朝食を食べ、8時に再び、停車場へ。
予想が当たり、ホッとした。バスが停まっていた。バスには金三角(ゴールデン・トライアングル)と書かれている。お客がここで朝食を取るために1時間ほど休憩する。バスの整備をしていた運転手に「ホイサーイまで乗れるか」と尋ねると、「どこでも座って良い」という。コロナ以前に陸路とフェリーでタイから日本に帰国した時に利用した寝台バスだった。その時は、中国人観光客で満杯だった。僕に指定された席は、運転手補助者が休むベットだった。しかし今回は乗客が6名しかいない。

バスは9時すぎに出発。さっそく、中国側イミグレーションに向かう。無事出国、そして1キロほど離れたラオス側イミグレーションがあるボーテンに入り、再び荷物を持って入国。あっという間の出入国だったが、他の乗客やバス本体の検査のために10時を過ぎていた。と言ってもラオス時間は一時間遅いので9時過ぎ。




朝9時に中国を出て夕方6時にタイに入国。友人が車で国境まで迎えに来てくれたので約3時間のドライブで犬たちが待っているチェンライの家にたどり着いた。さっそく体重計に乗ったら65キロ。一ヶ月で5キロ痩せてしまった。

2025 古稀のバックパッカー 続編㉙ 雲南からラオスへ
「春城」昆明でのタビは快適だった。友人として一宿一飯の恩義を感じる。居候中、移動や食事の支払いはすべて電子マネーで彼が支払う。「シェアー」すると提案しても「ここは私の国だから」と受け取らない。3日間、Yさんは私を一人にさせることはなかった。僕も遠慮という言葉を知らない性格になってしまった。タイ訪問時の彼は、バイクをレンタルし、小さなアパートを借りている。あまり裕福とは思えないし、派手な生活もしていない。すっかり散財をさせてしまった。改めて中国人の友人に対する「おもてなし」の深さを体験した。感謝のみ。
とは言っても、昔住んだイスラエルの『魚と客は3日で臭くなる』ということわざを思い出した、。いつまでもお世話になってはいけない。重い腰を上げて、昆明からさらに南に向かう。

昨今、中国と日本の関係が悪くなり、どうも中国人に対する風当たりが強い感じだ。確かに政治的なレベルは駆け引きが必要かもしれないが、中国という属性をもって人を見たり、決めつけるのは危なっかしい。日本では中国人観光客のマナー違反にやたらうるさい。僕が初めて、タイに行ったのは50年前。バブル最盛期。団体旅行できた日本人客が大声で話し、繁華街で聖徳太子を振りかざし、買春をしていた。急速に経済発展し、ツアーで参加する。大陸に育とうが、島国に育とうが、初めて海外に出る人たちのマナーはどこの国でも同じだった。自国の文化、生活習慣が基準だと思ってしまう。「知らない」から仕方がない。ましてや言葉が通じないこともあり、自国ではちょっとできないことが「旅の恥」は書き捨てのような気になってしまう。しかし、これも経験の積み重ねによって多くの人は熟成し、外の世界を知っていくと僕は思っている。文化、考え方はぶつかり合う事によって変化していく。中国の若い世代の人々とたくさん出会ったこのタビでその気持は強くなった。経済力を持った中国共産党が「愛国精神」や「力は正義」を使って、世界の中心に躍り出て行こうとしているが、どこまで強権を中国国民に押し付けるのか。一番の敵は「中国国民だ」と言うのはよく知っているはずだ。
Yさんに昆明駅まで送ってもらい、一気にラオス国境まで行くことにした。途中、タイ族が多くいるシーサンパンナ(西双版納)やワ族がいるエリアに寄り道したかったが、タイ、ラオスの天候が怪しい。台風の影響で大雨が降っているらしい。ラオスに入っての心配事は大雨だけでなくがけ崩れだ。未舗装部分が多く、数日に渡って通行止めになるこ可能性がある。タイ国境までの道は幹線だが道路状況が悪いからなおさらだ。これからは天気予報アプリを見ながら進んでいく。スマホで世界の気象情報がいつでもどこでも見れる。それも大都市だけでなく、遠く離れた田舎町まで。衛星とレーダーを利用しているので、地図さえ読めれば的確な予想ができる。
昆明からラオス国境の町モーハン(磨憨)までの距離は約500キロ。ラオスの首都、ビエンチャンまでは約1000キロ。中国の一帯一路政策によって、2021年、鉄道がなかったラオスにいきなり高速鉄道が完成した。昆明ービエンチャン間の旅客車の直接運行は一日2便のみ。人口が800万人しかいないラオスは、借款に苦しむだろうとも言われている。
中国国内路線だけの運行は多いが、それでも昆明からモーハンまでいく列車は1日4便程度。所要時間4時間半。夕方の出発で夜10時前に到着した。途中、シーサンパンナまではまずまずの乗車率だったが、モーハン到着時には数人の客しかいなかった。確かに便利になったが、採算は合うだろうか。中国にとってのメリットは、旅客より貨物輸送が重要のように見える。

モーハン駅は薄暗く、駅前の人影は少なかった。国境までは数キロ。白タクを捕まえて国境に一番近い宿に向かった。遅い夕食を探して、モーハンの街を歩く。車も人もほとんどいない。光を頼りに歩いていると、居酒屋に人がたむろしている。中国最後の食事はラオス産のビヤ・ラオと串焼き。ラオス語がわかる人が多いので、タイ語でなんとか注文できる。ここまで来ると地元に帰って来たような気がしてホッとする。それにしても、若い女性が着飾って夜遅くまで酒を飲んでる。

明日は、まず早朝からラオスのホイサイ行きのバスを探し、国境を目指す。まだまだラオス国内の移動に関しては、スマホで的確な情報が集められない。バスが有るかどうかもわからないが、とにかく行けるところまで行こう。昔は、ずっとこんなタビをしていたことを思い出す。ラオス国境まで400メートル。

20250 古稀のバックパッカー 続編㉘ 雲南の少数民族ワ族

雲南省、昆明滞在中に、気にかかっていたことがある。中国はミャンマーをどのように見ているのか?
地図を見るとわかるように、中国とミャンマーの国境は約2000kmにも及ぶ。中国側は雲南省、ミャンマー側はシャン州、カチン州で、反政府の少数民族が拠点を持つ。一旦は民主化するように見えたこの国は、2021年に国軍がクーデターを起こし、全権掌握をして4年が経過する。アウンサンスーチー氏を含めた国民民主連盟(NLD)幹部を不当に拘束し、再び混乱の中に置かれたままだ。
ミャンマーの先行きが見えない原因として、旧宗主国のイギリス、アメリカをはじめとした欧米諸国はクーデターを非難し、軍政関係者への経済制裁を科している。一方、ミャンマー軍政は国際社会の分断(中国やロシアなどとの関係)を利用し、制裁の影響を緩和させながら権力維持を図っている。
その中で、中国は隣接し、国境を挟み人々は自由に往来するつながりを持っており、少数民族の中には両国にまたがった生活圏を持っている。数年前、昆明を訪れた際に「シャン州に中国人は自由に入ることができ、日帰り旅行もできる。お前なら黙っていれば一緒のバスに乗れるよ」と誘われた言葉を思い出す。
中国政府にとってこのエリアは地政学的にも重要な地域である。マラッカ海峡を経由せずに原油をつなぐ一帯一路政策があることを忘れてはならない。そのため、ミャンマーの安全保障を望んでいるはずだ。しかし一方では安定しない紛争状況の中で利権を求めるグループに対して対応できない(しない?)状況を作り出す原因ともなっている。
昆明で、中国はミャンマーの状況ををどのように見ているのだろうか。ミャンマー独立以降の歴史の背景がわからないと硬い話になってしまうが、掻い摘んで聞いた話をまとめてみた。
Yさんは、シャン州だけでなく多くの少数民族に影響を及ぼしているワ族(佤族)の存在について注目していた。
「ワ族は、メコン川以西サルウィン川以東の中国雲南省南部とミャンマー北部シャン州、ラオス北部に約70万人が住む。1990年の調査では中国内に住居するワ族は約35万人であった。」(Wikipediaより)

ワ族は本来、中国との国境にあるパンサンを中心とした地域を「ワ州政府特別行政区」とし事実上独立している。ミャンマー軍事政権とは32年間、表面上は敵対関係になっていない。過去、麻薬王クンサーが率いる戦いに政府軍とワ族軍が共同勝利したことからタイ国境沿いまで勢力を拡大(南ワ州と呼んでいる)その軍事力で地域を管理しているだけでなく、反武装勢力との関わりも深い。
それにしても、100以上あるミヤンマー少数民族の中で、数十万人しかいないワ族が何故、軍事的にも経済的にも大きな影響力を持つようになったのか?長い間の政治的不安定と内紛によって、この地帯は麻薬、カジノ、オンライン詐欺、売春、希少動物売買などの違法ビジネスが横行し、無法地帯と言われ状況になっている。鉱物資源、とりわけレアアースの採掘はカチン州だけでなく、昨年からタイ国境のシャン北東部でも採掘が始められ、中国企業の関与の噂が取り沙汰されている。大量の資金をもとに、軍事的には数万人の兵士が最新武器(中国製)を持ち、兵器製造まで達成し、多くのミャンマー軍政府への抵抗組織に供給していると言われている。
「パンサンは二度訪れた。一回は個人として。もう一回は政府の役人に随行して公的に訪れた。UWSA(ワ州連合軍)が地域を管理し、独自の行政組織を持っている。会合に参加したが、会議の運営から机の並び方まで中国のやり方を真似ている。驚いたことに会議は中国語で行われ、参加者は流暢に喋っていた」とYさんは回顧する。宿泊、宴会も全く中国式で取り仕切られ、本当にミヤンマーにいるのかと思ったと続ける。パンサンの商業エリアでは中国元が使われ、ミャンマーの通貨・チャットは受け付けないとのこと。
僕は、文化人類学的に見て少数民族のワ族という人々に興味を持っていた。モン・クメール語族のヷ語を話し、自然と共存する文化、神話だけでなく独立後のビルマ共産党に関わり経緯などの話をYさんから聞くことができるのではないかと思っていたが、どうも違った。ビルマ独立後、辺境の地に置かれた彼らが経済的にあらゆる手段を使って生き残ってきたかを聞かされた。「力は正義」という昨今の不確実な国際社会の縮図を垣間見たような気がした。
「ワ族」という名を語っているが、UWSAはまさに中国の傀儡組織ではないかと疑う余地がある。政治的な民族紛争と言うより資源の奪い合いを含め経済的な戦いの場に見えてくる。ミャンマーの安定、平和に関しては、今後、中国の意向に翻弄され、ミャンマー自身が解決できる道はほとんど閉ざされていると感じざるを得なかった。
現在、タイ北部のミャンマー国境沿いには、ラフ、モン、アカ、リスなどのミャンマー山岳部で暮らしてきた民族がタイ側に避難している現状がある。彼らのほとんどは無国籍者で移動もできず、タイ側に山岳部の農場などで日雇い労働をしながらで滞在をしている。力を増強するUWSAの下で、強制的に行われる少年兵への徴用や強制労働、食料提供、更にレアアース採掘のための土地収用が強制的に行われると住民から聞いている。
ミャンマー軍政権(国家行政評議会)の情報は、首都ネピドーやヤンゴンといった都市とミャワディなどのタイ西部国境寄りに集中し、ミャンマー東北部の状況はあまり伝わらない。バンコクに滞在する日本、西欧諸国のジャーナリストによって配信されるからしかたが無いかもしれない。ASEAN(東南アジア諸国連合)の動きも足並みが揃わない。インドネシア、マレーシア、シンガポールなどは軍政に批判的で亡命政府とも接触する一方、カンボジア(当時議長国)などは軍政に寛大で、ラオス、タイ、ベトナムなどは批判を抑えている。
Yさんに、タイへの帰路で、パンサンを訪ねてみたいと話してみた。彼は、「一人で行くのは止めた方が良い。違法行為をたくさんやっている地域だから、なにかあった場合対応できない。招待状があれば別だがね」と締めくくった。
2025古稀のバックパッカー 続編㉗ 昆明の生活から(食文化)
タビをしていると、一人で食事をすることが多い。つい、麺類や簡単に口にできる一品料理に頼ってしまう。フランス、トルコと並んで世界三大料理と言われる中華料理。多様性ある料理だけでなく、食文化も知りたい。中国人にとっては「民以食為天(食は天に次ぐもの)」と言われるほど重要なはずだ。
地下鉄駅周辺の食堂に連れて行ってもらった。オフィス街にあるため昼食時には惣菜がたくさん並べられている。一品5−20元。ご飯のおかわりは自由。昭和の時代、古びた木製の机に割りばし、醤油、爪楊枝だけが置いてあった学生街のめし屋を思い出す。暖簾をくぐり、棚にあるおかずを選び、ご飯と汁と一緒にMy定食を食べた。日本と違うのは、おかずの種類がとても多い。地域性、民族性の影響もあるのか。小さな器はどれも満杯に盛り付けられている。ケチっぽさは見せない。中国だなと感じる。一人で食べてる人もいるが、数人で多種類の料理を分け合って食べている光景も多い。支払いはスマートホンで一人がさっと決済。シェアーもスマホでやっているみたい。


夕食は、Yさんの親族が集まっての食事会に招待された。広東にいる親類一家が、久しぶりに昆明を訪ねたのでついでに参加しないかと誘われた。

聚食制(しゅうしょくせい)と言われる回転式テーブルを13人で囲む。大皿料理を囲み、取り分けながら賑やかに食べるスタイル。出された料理名はわからないが「色・香り・味」を重視する調理技術で鮮やかだった。主食は玄米と饅頭(マントゥ)。ここのレストランは、自家の農場で栽培した有機農産物の料理が売りだという。主催するYさんのお姉さんの推奨店。
久しぶりにこんな食卓に参加したが、変化を感じる。以前は高齢者たちがタバコを交換し、テーブルで喫煙したものだが、見かけない。宴会の席では必ずあるお酒もなかった。油を流し落とすお茶だけが用意されていた。健康志向や飲酒運転を気にかけている。
さらに中国料理といえば、大量に注文し、「もてなしの証」として「食べ残す」文化だったが、変化しつつある。「食べきること」が推奨されるようになり、日本の「もったいない精神」に似てきたかな。この変化は、単なるマナーの問題ではなく、食品ロスの削減、環境保護、持続可能な消費といった現代社会の課題と深く結びついている。
中国人のイメージする“食事”は、家族や友人たちと一緒に同じ食卓を囲む “だんらん” や“会食”が基本であることには変わりない。たとえテーブル上で若者たちがスマートフォンを眺めながら食事していても。経済発展が進み、忙しい毎日を送り、個人主義が進んでいるが、何はさておいても食事の「場」は大切にされている。

2025古稀のバックパッカー 続編㉖ 昆明のアパートで宿泊

昆明では友人Yさんのアパートに居候することになった。これまで青年旅舎での泊まりだったが、どうも旅行という意識が強く、もう一つ中国社会の内部が理解できてないような気がしていた。普通の人たちがどのような生活をしているのかを知りたい、できれば宿泊したいという希望が叶った。
が、中国で外国人がホテル以外(個人宅、友人宅など)に宿泊する場合、到着後24時間以内に本人またはホストが管轄の公安機関で臨時宿泊登記の手続きをする必要がある。これは法律で義務付けられている。という面倒な作業がある。
まあそれはそれとして、Yさんは「そんな手続きは必要ない」と公には言わないが、「心配するな」と言ってくれ、お言葉に甘えることにした。タイやカンボジアに長く滞在した経験があり、僕ともNGO関係の付き合いがあり、感覚は普通の華人より「自由」なのかもしれない。
山岳少数民族の研究をしている彼はタイの大学で中国語の教鞭をとっていた。僕らの意思疎通はもちろんタイ語。Facebook、Massengerでもタイ文を流暢に操る。そんな彼だから、外国人との付き合いもあり、タイ人化した僕に気さくに対応してくれた。

昆明市内のアパートは、植物学者だった亡き父親が所有していたもので、今は彼一人で住んでいるから何日でも泊まって良いという。アパートと言うよりマンションの方が適切かもしれない。眺めはよく、アパート内部の庭園はよく管理され、亜熱帯の木々が黄緑の色を付けている。少しシャビーな建物だが4LDKのスペースは、電化製品、ソファー、ベット。そして数々の植物関連書籍がところ狭しと並べられている。
問題はエレベーターが無いこと。4階にある部屋には階段に頼るしかない。晩年を過ごした両親もさぞかし苦労したに違いない。
数日前まで600キロ離れたシーサンパンナで少数民族の村で調査していたので、あまり掃除はしてないと彼はいうが、気にしなければ落ち着けるし、家族がいない分、自由に寛げる。部屋の中では、政治経済の話、中国とタイの山岳民族の関連性、そしてタイにいる恋人の話など、気さくに話せた。
中国というと官憲の眼が厳しいというイメージ、中国人は情報統制されていて政治の話がしにくいなどと心配していたが、どうも思い過ごしだった。
オープンな彼は、最初から「政治的なことはあまりわからない」と言ってきた。が、この類の話が嫌いではないということは雰囲気から良くわかる。逆に知らないと、中国社会では生きていけないとすら感じる。それ故、憶測や期待などは挟まない。客観的な事実のみを話してくれる。
例へば、ちょうど7月訪問時、中国の軍内部の動きがあり、最高幹部の消息がわからないニュースがあった。僕は台湾有事の可能性があるのかと単純に心配した。彼は一言、「人民解放軍の中に、習近平体制への減速経済批判がある。国民は知っているよ」を簡単に解説した。なるほどと思う。台湾統一より先に、経済対策が重要との意向が共産党幹部でもある軍関係者から出ているということか。政府の息がかかった情報はコントロールされているから、より裏の意味を考えることがこの世界では必要だと感じた。(ちなみに、10月時点で、習氏は中国軍の最高幹部ら9人を反腐敗を理由に一斉に粛清した。)

彼は車を持っていない。中古バイクを移動用に利用している。「商業地区にあるアパートには駐車のスペースが少ない。車社会以前のバイク自転車時代の設計だ。そのため周辺での路上駐車が当たり前。今のようなEV全盛期の時代になると空いたスペースを探すだけでも一苦労。夜は近くで暮らす人によって道の両側は車で満杯。都市部ではシェアサイクルが急速に拡大したのも仕方ないかな」と説明する。

そんな彼が、友人の車を借りてきて、ドライブに誘ってくれた。いささか運転はぎこちないが、立体交差の激しい市内を抜けて南西にある滇池一周するという。池といっても琵琶湖の半分はある立派な湖だ。滇池の周辺農村部は、観光農村(アグリツーリズム)を形成していた。古い農家を補修、農産物や地域特産の手工芸などの土産物店やレストランを新設、清潔な公衆トイレや案内板が建てられていた。観光といっても日帰で来る昆明の地元民を相手にしているような規模だが、外部からの資本ではなく、住民地域が一体化したつくりになっている。名勝地でもない農村風景が売りである。若者を中心に人気が急上昇しており、週末の「プチバケーション」として週末旅行の選択肢を増やし、地域経済の活性化に貢献しているようだ。 村の小さな屋台で田舎料理を食べた。タイではシャン族がよく食べるカオレームフーン。中国では涼粉と呼ばれる豆の澱粉を、ところてんのように固めたもの。ビーナッツや麻辣であえて食べる。あらためてこの地域とタイ、ビルマの食文化のつながりを見た。

2025古稀のバックパッカー 続編㉕ 雲南省へ(昆明)
貴州省から南西に向かうと雲南省に入る。なだらかな山間を高速列車は走る。トンネルが多く、田園風景や少数民族の村風景をゆったりと眺める情緒はあまりない。

中国の「南の玄関」雲南省の面積は日本とほぼ同じ。ラオス、ベトナム、ミャンマーと接する。人口は4600万人。全国55民族のうち25の少数民族が暮らし、平均気温15度。「春城」呼ばれる省都・昆明。長粒種のインディカ、短粒種のジャポニカを含めたルーツと言われるイネの野生種があり、発祥の地と言われる場所だ。またお茶や発酵食品の起源もあり、豊かな自然と多様な文化を持っている。僕はなんとなくふるさとに近づいてきた安心感に浸り、しっとりとした空気に心が和む。乾燥した新疆ウイグル自治区から始まった中国国内のタビ、いよいよ最後の省となる。

高速鉄道を利用すると「昆明南」駅到着便が多い。以前は「昆明」駅が長旅の終着点となっていたが、いまや交通の要所は昆明南になっていた。国内だけでなく、東南アジアからの陸路の発着点でもあり、広い構内は地下鉄、バスターミナルとのつながり、まさに中国の南の玄関として機能している。とはいえ、南駅はビジネス中心部からは28km離れているので旅行客には少し不便。到着は夜9時で暗くなっていた。昆明ではタイで知りあった中国人Yさんのお宅にお邪魔することにしていたが、彼の家から南駅が遠いために、とりあえず近くの青年旅舎に一泊する。
ほとんど明かりがない住宅新興地の中を青年旅舎に歩いて向かう。路地にある飯屋からいい匂いがしてきた。おそい夕食にありつく。タイで言う「ぶっかけご飯」。おかずを選び、ご飯と一緒に食べる。小麦類に頼っていた食事から米中心のメニューに様変わり。炊飯器に入った白米はおかわり自由。雲南の食の豊かさに改めて感激。

交通のハブとして伸びる可能性がある地域だけに、オープンしたばかりの近代的な青年旅舎だった。日本でいうとカプセルホテルのような仕組みでベットが個室のようになっている。ドミトリーの部屋だけど、プライバシーが守れる。トイレ、シャワーも洋式。昔に比べると隔世の感がある。
中国というと、別名「ニーハオトイレ」を思い出す。公衆トイレのドアがなく隣の人を見ながら用を足した経験がある。しゃがんだ姿のまま、「こんにちは(ニーハオ)」というように、お互いの顔が見える。以前は個人のプライバシーなど気にしない世界だった。
そんなこと時代もあったな。他人の寝姿が見えるドミトリーのある青年旅舎も今後、個室化するスタイルが始まるのかも。近代化して来るにつれて、個人情報保護のような認識が少しずつ拡大しているのかもしれない。と言っても、政府による監視はIT分野の発達によって強くなっている。新世代はどんな「自由」を欲しがり、共産党はどこまでそれを許すのか。

翌朝、昆明駅の近くのYさんの家を目指して地下鉄を乗り継ぐ。地下鉄駅で出会い、そこから彼のアパートまではシェアサイクルを利用することになった。これまでも黄色や青のレンタサイクルを大都市では見てきたが、使い方がわからず、いつも徒歩やバスに頼ってきたが、Yさんに思い切って使い方を尋ねてみたところ、さっそく体験しようということになった。
シェアサイクルのメリットは利便性。出かけた先で、目的地が歩くにしては少し遠い、タクシーを使うにはちょっと近い時に目の前の路上に停めてある自転車を借りて目的地まで楽に速く移動することができる。さらに、目的地に着けば、その場所に乗って来た自転車を乗り捨てることもできる。

中国独自の電動自転車(スクーターと自転車の両方の機能を持つ自転車)の普及によって2016年あたりから中国国内では自転車シェアリングサービスの利用者が激増し、今や中国の人達にとって必要不可欠なものとなっているようだ。
利用の方法はスマートフォン登録と支払いのために、AlipayかWechatpayのアプリが必要。利用料金は時間単位で決まる。30分で7−8円程度の格安なので気軽に利用できる。支払いはWechatなど電子支払いシステムを介して即できる。
旅行者にとってはQRコード登録など面倒な点が少しあるが、これさえこなせれば、市内の移動などが改善される。僕はYさんのスマートフォンを通してさっそく利用させてもらったが、あっという間に鍵が開き、スクーター感覚で彼のアパートまで行くことができた。それにしても、中国の利便性追求のエネルギーに感心させられる。日本だったら、やれ道路交通法や盗難防止、はては置きっぱなしの処理や支払い方法など、検討に検討を重ねる面倒さを考えると実用化には時間がかかると想像する。中国人の大胆さや動かして見てから考えるようなスピード感を見せつけられた。
