toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅⑮ Imphal、INDIA (Sorry,only Japanese)

 

 

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探していた人の姉シナウォンさんと

⑮ インパール 人との出会い、人探し

 一人「旅」。大きな予定は組んであるが、今日はどこに泊まるか、どこに行くのか、何を食べるのかわからない。自分の判断を頼りに行動する。若い時は「〇〇の歩き方」を手にして、有名ところや話題になっている食べ物を目指した。時間にコントロールされた生活を送っていた時はそんな旅が効率的であり、リスクも少なかった。しかし、ガイドブックに書かれている場所へ行くことが目的になり、行けなかった場合心の残りを感じていた。旅は「線」を引く移動作業になってしまい、一点から広がる「面」を作る作業は少なかった。動かされ、線を引いただけの旅は、時間が経過するとほとんど思い出が残らない

 この齢になると、ガイドブックにコントロールされることはほとんど失くなった。ここに行ったら話題性に事欠かないだろう、とかも計算しない。面倒くさくなったのかもしれない。現地で聞き、自分で考え、価値を見つけたら動く。自分の感性に頼るのが面白い。とはいえ年齢と安全は考慮する。

 うまくいけばOK。失敗してもOK。責任はすべて自分の判断による。一人旅の良さはそんな所にある。そんな旅、「辛いんじゃない」、「もっと楽しいほうがいいんじゃない」という声も聞くが、「辛い」こともポジティブに考えればいい経験だし、いずれ酒の肴になる。求めた目標にうまく出会った時、心の中に感動が密かに湧いたり、住んだ人々しかわからないことから学ぶことは多いと思えるようになった。その背景にも興味を持つようになった。「人との出会い」があった時、どんな名所、旧跡、そして美味しい料理より大きな旅の思い出が創られる。

 インパールで僕を迎えてくれた友人は、タンクル・ナガ族のヴィシさんだった。アッサム博物館館長の従兄弟で、「人探し」をするならと紹介された。【ブログ⑨アッサム州立博物館参照】僕はアッサム以降、「インパールでの人探し」の詳細目的をメールでヴィシさん宛に送っていた。平和な世界なら、こんなことも必要もないが、独立闘争や民族紛争がまだ燻っている場所、「人探し」をする素性の知れない外国人に会うには警戒があるはずだ。メッセンジャーで何回かやり取りした。安心感を与えるためインパールの宿泊先も有名なホテルを予約、そこで落ち合う約束を取り付けた。「信用」してもらうことが一番。そんな中、コヒマからのバス移動途中突然メッセージが来た。「バスステーションまで迎えに行く」と。ミーティングポイント先の突然の変更は、用心のためか、あるいはおもてなしか?まだ信用はされてないかな。ドタキャンではなくひと安心。

 初めて会うヴィシさんは、精悍な顔つきをした人だった。対応にお礼を言いながら、僕はさっそく彼の職業を聞いた。ただ者ではないことだけは姿勢、話し方からわかる。「社会運動家」だそうだ。インパールで民族統一運動組織の事務局長をしている。組織名も教えてくれたが、僕の基礎情報が不足しているのでどんな組織か、どのような目的方針ををもっているのか判断できない。ただはっきりしているのは、僕が探している人の情報を持っていること。そうでなければ、事前のやり取りで接触はキャンセルされたはずだ。そして、人を探すネットワークと繋がっていること。さらに付け加えれば、金曜日の昼過ぎに私用で僕に合うことができる人、ということだ。ただ、不安はなかった。むしろ仕事でもないことにお付き合い頂き、申し訳ないと感謝の気持ちだけだった。

 彼の組織について後に調べたら、1990年代中頃からインド政府との対話を開始し,1997年8月に停戦に合意、2015年8月にインド政府と和平協定を締結した「ナガランド民族社会主義評議会」イサク・ムイヴァー派(NSCN-IM)と関連がある組織だろうとわかった。[ブロク⑫ 少数民族、ホーンビルフェスティバル参照]。

 ホテルにひとまずチェックインし、ロビーでコーヒーを飲みながら、本題のアチャンという人物に会えるかどうか僕は彼に尋ねた。「彼の行方はわかっている」とヴィシさんは話し始めた。「しかし、今はインパールにいない。日本に行っている」と。すばらしい情報収集力だ。そして、続けた。「アチャンのお姉さんが、近くに住んでいるから、夕方になったら会えるようアポイントを取ってある」。こちらの意図を察してくれ、物事が前に進むようすべて段取りがしてある。さすが事務局長だけあると感心した。

 コーヒーを飲み終えて、夕方までの空いた時間、僕の要望でインパール平和記念碑まで案内してもらった。

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ヴィシさんと友人の娘さん。彼女は日本語を話す。Youtube「ワンピース」で学んだ。ナガ族でもこうした世代がでてきている。

 その夜、僕は、探していたアチャンさんのお姉さん、シナウォンさんの自宅に向かった。中学校の校長を退職して、今は趣味で色々な農作物を作っているエレガントな老婦人だった。日本の研修先になったTさんが、その後のようすを聞きたいと言っているがアチャンさんの連絡先がわからない旨を伝えると、彼女は、「折角インパールまで会いに来てくれたのに、病気の治療のために今は彼は日本にいるの」と詫びつつ、「だけどインターネット電話でつながるから」と携帯を手にとった。便利な世の中になったものだ。僕にとっては遠いインパールというイメージだったが、この電話で一気に近くなった。

 アチャンさんとは、日本語で僕がインドを訪れた理由と、Tさんがあなたを探していることを伝えた。彼は、「Tさんのこと覚えています。私の電話番号を教えますので、連絡ください」と快く返事をしてくれた。ただし、「Tさんからの要望で、一緒に日本研修にきたクキ族のトータンという青年の連絡先も知りたい」と伝えたところ、「わからない」と返事が来た。僕の考えでは、一人見つかれば、同じ州に住む人同士だから簡単につながると予想したが、間違いだった。本当に知らないのか、知らない事情があるのか、僕には些細な引っ掛かりがあった。

 Tさんからの最初のメッセージには、『1994年にナガ族のアチャンとクキ族のトータンを受け入れたことがあります。とても仲のいい青年同士でしたが、最後の日にきいたら「自分たちは祖国に帰ると敵同士だ。部族間抗争で戦っている』と書かれていた。26年前の事。この地も外国人に開放されるようになり、時代は変わっているだろうと簡単に思っていたが、「やはりそうか」という嫌な思いが浮かんできた。

 ナガランドに入って以来、現地ですこし血生臭い、ディープな情報を少しずつ耳にするようになってきた。観光客としての眼には映らないが、人々の日常生活の話などを聞くと時々出てくる。部族間の争いは今も残っていると。クキ族とタンクル・ナガ族はあまり仲が良くない。また両者間だけではなく、他の部族とも絡み合っているようだ。部族間の首狩りや勢力争いの時代から始まって、イギリス、日本軍との協力関係、そしてインドからの独立闘争。外の世界との接触によって生活経済は大きく変化したが、紛争は長く続いている。むしろ複雑化、マンネリ化がすすみ、解決は一筋縄ではいかなくなっていると僕には見える。「ナガランド」の紛争とはナガランド州だけでなく、ナガ族が住むマニプール州のような近隣州、ミヤンマーを含めた(大ナガランド:Grater Nagaland)という認識がそこにはある。

 すべての民族の統一とナガ族の権利の保障というのが理想だが、現実は難しい。個人的な妬み、恨みだけでなく、経済力、政治力でどの部族が代表権を持つのかといったことから始まる。対話のためにテーブル協議も幾度と開催されたが、現実には具体性がない対応を繰り返してきている。現在、「ナガランド民族社会主義評議会」イサク・ムイヴァー派(NSCN-IM)と中央政府間の協定は、タンクル・ナガ族が主導権を持っている。しかし、これを快しと思ってない部族も多いと聞いている。マニプールに多いクキ族は、ミャンマー側のクキ族の支援を受けて、独自の主張を持っているらしい。お互いを認め合い、テーブルで解決するのは理想とされるが、まだその時は遠いかもしれないという思いが頭をよぎった。

 外部と隔たれたアニミズムの世界に生きた頃、それぞれの民族は常に敵対関係にあるが、経済生活、政治社会制度、伝統・習慣、領域、土地への支配関係などで共通する部分はあったと思う。部族間の争いは、長老や第三者たちによって、いわゆる手打ち式のような調停がなされる機能(慣習法)が働いたはずだ。同じようなタイの少数民族の古老からこんなことを聞いたことがある。儀式には財産とも言える家畜が多数犠牲になり、酒が振る舞われた。

 時代が進み、インド、ミャンマー、国境接するバグラデッシュ、中国などの外部の大きな力が入ってくるようになると、夫々の思惑に小さなグループは翻弄される。また武器も流れ込む。北東インドの経済後進性は、働き先がない青年を武装組織に惹きつける。組織は資金調達のために非合法(麻薬・密輸・徴税)な活動を行う。いわゆる権益が発生する。

『現在の「ナガの和平」は、中央政府にとってはナガ武装グループを北東地方の他の武装グループから切り離す積極的な意味がある。またナガの武装グループにとっては、「独立」を掲げて対立の姿勢を保持しながら、中央政府と話し合い停戦を継続することに利益を見出していると考える。紛争・対立状態の継続つまり「停戦と話し合いの状態」の継続が政府にとって利益で、武装勢力にとっては既得権益の保持に有利という奇妙な状況が生まれている』(注1)

 いずれにしても、ヴィシさんとお姉さんのシナウォンさん協力によって、アチャンさんの連絡先は手に入れた。そして改めてナガ族の問題の一部を垣間見ることができた。夜遅く、ヴィシさんがホテルに送ってくれた。丁寧にお礼を言い、僕は急いで手に入れた電話番号をTさんにメッセージした。

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盆地のインパール、朝

 ここからミャンマー国境までの距離は100キロ少々。日曜日は外国人向けの国境が閉まるかもしれないという情報を聞いた。明日は土曜日。僕は急遽、明朝ミヤンマーに向けて行くことにした。インパール滞在はたったの半日になってしまった。町の様子もゆっくり見ることも出来なかった。残念だけど近いうちにまた来る機会が出てくるだろう。

 

注1:インド北東地方の民族運動: ナガ民族について 井上恭子著

近藤則夫編『インド民主主義体制のゆくえ:多党化と経済成長の時代における安定性と限界』 調査研究報告書 アジア経済研究所 2008 年