toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅⑭ Imphal、INDIA (Sorry,only Japanese)

 

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コヒマ〜インパールのバス


⑭ いよいよインパール

 コヒマからマニプル州都インパールへは130キロ南下する。コヒマから出ているバスは一日一本。予約なんていうシステムはない。乗れなかったら大変だ。「朝8時発だけど、6時半にはチケット販売開始するよ。すぐ売り切れるから早く来たほうがいい」と前日にバス時刻を尋ねた時、カウンターの青年がアドバイスしてくれた。翌朝6時に荷物を纏めてバスターミナルにいくと既に10人ぐらい並んでいた。チケット窓口は男性用と女性用に分かれている。「なんでだろう?」 発売が始まるとその訳がなんとなくわかった。列の後ろからグイグイ押される。満員電車のよう。やっぱり男女は分けないと痴漢が出るかも。もちろんチケットはすぐに売り切れた。

 ナガランド〜インパールをつなぐこの道は、インド国道2号線そしてアジアハイウェー1号線でもある。道路ナンバーだけ聞くと自動車専用、高速走行ができそう。現実は違う。山間のナガランド州側は未舗装、雨期で道には大きな穴が空き、乾期になると粉塵が舞っている。道幅も狭い。日本で言えば、自然災害を受けたばかりの山道(市道レベル)と表現したほうが的確もしれない。満席で出発したバスは時速20キロぐらいで走行。道路コンディションだけでなく、バスの性能にもその原因はあるだろう。高速道がつくられ、鉄道も急速にシステム整備されているインド本土。それにしても北東インドでは州都と州都をつなぐ道路の舗装・拡張さえ整備が進んでない。地域格差が大きすぎる。

 道路沿いにはヒマラヤ桜があちらこちらにあった。来月には花を咲かせるのだろう。しかし、原生林のような森はない。バスから見える風景は棚田、焼畑、そして2次林のパターン。町から離れると道路にナガ族の集落や住民の姿もほとんど見えない。しかし上を見上げると、山の稜線まで確実に人の手が入り、生活が営まれいる。

 昼過ぎにやっと州境に到着。全員降ろされ、「外国人は警察署にパスポートを持って出頭するように」と言われる。案内されて建物の階段を上がっていくと屋上に出た。そこには銃を持った職員が下の道路を見張っている。異様な雰囲気が眼に入り、緊張する。A4の書式に移動目的や経路、あげくは死んだ親父、母親の名前まで書かされた。そして担当官はパスポートを最初ページから丁寧に確認する。全部手作業。数十年前の発展途上国の入国審査のようで、部屋の中は銃はあるけどコンピューターはなかった。最後に「外国人チェックポイント」という大きなスタンプを押す。おいおい、僕は驚いた。出入国、ビザ以外でパスポートにスタンプが押されたのは初めてだった。外国人入域制限の名残りか?この地域の治安状況改善やインフラ整備が容易ではないことを肌で感じた。休憩とはいえ時間を取られ、僕は他の乗客のように昼食する時間がなく、チャイとお菓子で空腹を満たすはめになった。

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州境のチェックポイント、パスポートに外国人チェックとスタンプ押される。

 

 途中休憩2回を含め6時間半かけてバスはインパールの町に入った。人口26万人の町。海抜は1500メートルから780メートルまで降下、午後2時過ぎ下車すると身体が汗ばんだ。大きな盆地のこの町は、平野が開けている。インド独立前までマニプル王国として、独自の文化を築いてきた。町の中心には、その象徴として城郭が形成されている。州の現在の公用語はマニプリー。チベットビルマ語族。先住民メイテイ族が使用してきた言語。しかし彼らの起源に関しては謎の部分が多い。どこから来たのか定説はないが、チベット東部のカム地方からミャンマー北部に南下し、その後、マニプルにやってきたという説が有力のようだ。メイテイ族はいろいろなところから集合した民族ではないかとも言われている。インパールは昔、湖だったそうだ。中央の谷に乾燥した土地が現れた後に周囲の丘から人々が移動してきたとも言われる、メイテイという名前自体が特定の民族を表すのではなく、多民族が統一されてできた名前と言われる。ちなみに、メイテイ語でインパールは「乾いた土地」という意味。隣接するミャンマーは当然のこと、,タイのアユタヤまで広い範囲の影響を受けているマニプリーは、氏族によって7つの派生があり、お互い理解できない部分もあるそうだ。

 近代マニプルの歴史は、外の世界の影響を受け始める。1891年、英領インド保護下の藩王国となる。第二次世界大戦で日本軍の戦場となっただけではない。1947年の英国撤退後、マニプール王国は「独立」を果たし、独自の憲法も制定したが、1949年10月、当時の国王がインド政府との合意書にサインしたことで、インドに併合され、王国は消滅。インド連邦直轄領から州となったのは、1972年のこと。外部からの圧力に翻弄されたこうした歴史が、「インド本土」への反感や武力による抵抗として現在も燻っているのは容易に想像できる。

 

 インパールのバス停には、アッサムで紹介された友人が待ってくれていた。彼の案内で、日本軍慰霊塔がある場所まで連れて行ってもらった。インパール作戦については、前ブログで紹介したように、「無謀な戦い」だが、日本軍がどこまで来たのか、詳細を知りたくて、足を運んだ。最終地の戦場となったロトパチン村。日本軍は2926高地と呼んでいた。インパールからは南西17キロの地点となる。村の人は日本兵が多くの血を流した丘として、ここを「レッド・ヒル」と呼んだ。(注1)車窓から眺める、稲刈りが終わり、のんびりとした夕方の農村風景の中に、レッドヒルはあった。ここで大激戦が繰り広げられ、これより先は攻略できなかった。

 インパール在住のインド友人は、「初めて行くけど。静かな所だと思うよ」と言ったが、平和記念碑の周りはいつになく、忙しそうだった。一週間後(12月15日)に日本の首相が訪れるので、周辺の環境整備が日が暮れるまで突貫工事で進められていた。(注2)

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レッドヒル、慰霊碑、平和記念碑

 「インパール作戦戦没勇士の碑」の側には日本軍の速射砲が置いてある。そして奥には、「英霊よこの地で静かにお眠りください」と刻まれていた。「5月20日、33師団214連隊は兵力の最後の力をふりしぼった攻撃だった。しかし、英印軍の猛反撃に第1大隊は玉砕。第2大隊は2926高地制圧を目指すが、山頂と山麓から攻撃され21日に山麓に追い落とされる。その後9日間、孤軍奮闘したが玉砕。ここで、第1大隊は残存380名のうち360名を失い、第2大隊は500名中460名が失われた」という。夕方、幾分赤みがかった「レッドヒル」。僕は丘に向かって静かに手を合わせるしか出来なかった。214連隊は宇都宮で組織されていた。(つづく)

 

注1:第33師団は5月20日インパールの南15kmの「レッドヒル」まで到達したが、連合軍の激しい反撃を受けこれ以上の進撃はできなかった。雨季が始まり、補給路が伸びきる中で、空陸からイギリス軍の強力な反攻が始まると、前線では補給を断たれて飢える兵が続出。極度の飢えから駄馬や牽牛にまで手をつけるに至るも、死者・餓死者が大量に発生する事態に陥った。また、飢えや戦傷で衰弱した日本兵は、マラリアに感染する者が続出し、作戦続行が困難となった。機械化が立ち遅れて機動力が脆弱な日本軍には、年間降水量が9000mmにも達するアラカン山系で雨季の戦闘行動は、著しい損耗を強いるものであった。=wikipedia より=


注2:12月安倍首相のインド訪問で、首相としてインパールを訪れ、平和記念碑に献花する日程を公表していた。インド北東部グワハティで、モディ首相と16日に会談する予定だったが、移民に関する法改正(CAB)に抗議する住民らと治安部隊が衝突し、外出禁止令が出されるなの状況で延期を発表した。