toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅⑬ 2nd World War in Nagaland (Sorry,only Japanese)

⑬ コヒマ もう一つのインパール作戦

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コヒマにある第二次世界大戦博物館 右下は33師団長 佐藤中将

 つい75年前のことである。ナガ州の州都コヒマを日本軍が1944年4月末から一ヶ月ほど占領していた事を、この旅で初めて知った。日本人の殆どが訪れたことが無い土地だ。

 無謀な戦いと言われた「インパール作戦」。連合軍による中華民国への補給路(援蒋ルート)を断ち切り、戦局を一気に打開しようとした戦いだ。1944年3月8日、第15軍(牟田口司令官、3師団)は,北(31師団)、南(33師団)、東(15師団)の3方面からインドに駐留するイギリス軍の主要拠点だったインパール攻略を開始した。5月から始まる雨期を前に攻略完了するために投入された兵は、約5万とも9万ともいわれる。しかし、チンドウィン川を渡り、アラカン山脈を突破する長距離遠征を支援する食料・兵器補給はされず、雨期に突入。次第に戦をする環境ではなくなり、退却の決断となる。逃げ惑った山道には、無数の日本兵士の餓死者・自殺者が積もるように倒れ、「白骨街道」と呼ばれた。この悲惨な状況を聞いたことがある人は多いと思う。

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ギャリソンヒルの戦い、日本軍の進攻 ーen.wikipediaより

 この戦いで、北から攻めた佐藤司令官率いる31師団(略称、烈師団)は、北部アラカンの山の中を突破し、4月8日にはコヒマに進攻、イギリス連邦軍をコヒマ南西高地まで後退させた。死傷者は両軍合わせて1万人以上になる。壮絶な戦いの様子をイギリス連邦軍は、後世に長く伝え、この戦いを思い出す英国民は多いと言われる。

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現在のギャリソンヒル戦没者慰霊塔


 コヒマにはインパールに向かう道とディマプールに向かう三叉路があり、丘になっている。この地を「ギャリソン・ヒル」と呼んでいる。戦闘地となったここには連合軍の戦没者慰霊墓地が現在もきれいに管理されている。そこには、以下のような碑文が刻まれていた。

 -When you go home tell them of us and say for your tomorrow we gave our today-

 (帰国したら、あなた達の明日のために私達の今日があった、と伝えてくれ)

 一時的にはコヒマの町を日本が制圧したが、烈師団は疲弊しきっていた。第15軍へ兵站の補給を要請打電するも、牟田口司令官からの返答は「そのままインパールに進撃しろ」という精神論だった。機動部隊を持ち、制空権を握っているイギリスに対し、佐藤師団長は最終的に作戦継続困難として、独断で撤退判断(抗命)、6月1日に決行する。死刑を覚悟の上だった。牟田口司令官によって佐藤師団長は更迭され、精神鑑定を受ける。7月3日、食べ物も鉄砲玉もない状況で、インパール作戦は上層部より作戦中止を決定、その後、兵士たちは白骨街道へとつながる。

 戦後長い間、「インパール作戦の失敗は戦意の低い佐藤ら三人の師団長が共謀して招いたもの」とされて、非難を一身に浴び続けた。しかし、一方では佐藤の抗命撤退によって命を救われた烈師団の兵士たちもいる。多くが四国出身者だった。=wikipediaより=

 

 戦争は決して勝者と敗者の2者のみではない。インパール作戦では、日本軍、イギリス軍だけではなく、日本軍にはイギリス支配下のインド独立運動をしていたチャンドラ・ボース率いるインド国民軍6000人も作戦に投入された。またイギリス連邦軍には、ネパールのグルカ兵、インド軍が加わっている。とりわけインド人は双方の軍で犠牲になっている。さらに、戦場となった山々には多くのナガ族が住んでいた。

 ナガ遺跡村の一角に、第2次世界大戦博物館(2nd World War Museum)がある。戦争をイギリス、日本、ナガランドの立場から記録している。辺境の地で前近代的に暮らしてきた彼らが、イギリス人そして同じモンゴロイドの日本人に初めて遭遇、近代戦争を通して文明に巻き込まれていく様子がそこには描かれている。 

 僕は、海外に出る度に第二次世界大戦中で日本が、狭義にいうと日本軍がどのように受け止められてのか気になり、博物館・資料館を訪れる。一つは自分が日本で受けた戦後歴史教育が正しいのか。そしてもう一つは、その国はどのように見ているのか。時にはバイアスがかかり、ネガティブな情報が展示されたり、「悪者」のイメージだけがつくられ、正直、胸が痛くたくなる思いも過る。

  この博物館でナガ族の女性と出会った。大学教員。「日本人か?」と尋ねてきた。僕は無意識にドキッとした。「この戦争をどう思うか」と言う質問に、「実は余り知らないんだ」としか答えられなかった。僕の逆の質問に対して、彼女は、「祖父から日本軍の話を思い出として聞いている」と言った。否定的でもなく肯定的でもなく。

  博物館では、戦争を経験したナガ族の老人のインタビュービデオが流れている。「日本軍へ協力し、宿泊先となった家がイギリス空軍によって破壊され、またイギリスに協力しているのではという村人に日本軍は厳しかった」と語っている。この博物館は大戦を第三者的に、そしてナガ族の視点から見ていた。僕は、「重たい空気」を感じなかった。

 いずれにせよ、突然、降って湧いたような世界大戦、ナガの民族にとっては、ただ戦場にされただけかもしれない。とはいえ、自分たちの土地に入り込んできた戦い(インパール作戦)。そこで見た光景は何を残したのだろう。人々の心の中にどのような影響を与えたのだろう。その後、ナガの人々はインドから独立をめざして、武力闘争を含めて長く戦っており、完全合意には至ってない。

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町の至るところでインド軍の兵士を見かける。