toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅⑫ Nagaland Hornbill Festival(Sorry,only Japanese)

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ホーンビル・フェスティバル メイン会場

⑫ ナガ族、ホーンビル・フェスティバル

 ホーンビル(Hornbill)は、サイチョウ(犀鳥)のことだ。ナガ族の多くが頭の飾り付けとして羽根を利用している。横で彼らの踊りを見ていた観光客が言った。「この鳥も減少してるみたいで、本物の羽根が少なくなっている。残念だね」。

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ホーンビル(サイチョウ) wikipediaより

  ホーンビル・フェスティバルに参加するのは16部族。

Angami(アンガミ)、Ao(アオ)、Chakhesang(チェケサン)、Chang(チャン)、Khiamiungan(キアミウンガン)、Kachari(カチャリ)、Kuki(クキ)、Konyak(コニャック)、Lotha(ロタ)、Phom(ポム)、Pochuryi(ポッチュリ)、Rengma(レングマ)、Sangtam(サンタム)、Sumi(スミ)、Yimchungrus(イムチュングルス)、Zeliang(ゼリアン)。

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参加したナガ16民族 〜フェスティバルパンフレットより〜


 会場となるナガ遺産村は州都コヒマから10キロほど離れたキサマという村にある。ゲートの前では全ての部族が並んで訪問者を迎えてくれた。各部族が同時にそれぞれの歌を披露しているので、会場全体が生の声で覆われている。彩り艶やかな女性たちの服装、戦士の装いの男性たちが持つ槍、銃などに度肝を抜かれた。部族固有の音楽をそれぞれが歌っているが、不思議に雑音にならない。音程、コーラスが一定している。賛美歌、ゴスペルでトレーニングを積んでいるのだろう。タイの山岳少数民族の祭りや行事も幾度となく参加したが、ここまで洗練されたのは初めて見た。自らの部族の誇りとして真剣なパフォーマンスを繰り広げている。そして演者自らも十分楽しんでいる。中央ステージでは、10日間に渡り、音楽、踊りだけでなく、各部族の伝統的な遊びゲームや生活・農業・狩猟の様子が演じられる。

 ステージから離れて、部族ごとの伝統家屋を訪ねた。フェスティバル期間中、遠くの村から来た演者たちは、この遺産村で寝泊まりする。部族ごとの敷地が有り、伝統家屋、生活関連道具が揃っている。衣食住をするだけでなく、訪問者に対して食事の提供も行うので伝統料理が味わえる。温度が下がる夕方からは、焚き火を起こし、米や粟を発酵させたドブロクを囲んでいる。とはいえ、すでに彼らの一部は狩猟・農作業の日常生活からはかけ離れているのだろう。戦士の中には幾分、腹の肉付きが良すぎる人も見かける。

 部族の会話に耳を傾けてみる。単語の意味はわからないが、日本人の僕にとっては発音やアクセントは馴染みがある。タイのアカ、ラフ、リス族の友人達の特徴に似ている。喉の奥を使う発音は少なく、単語が短かい。やっぱりチベットビルマ語族に属している。昔々、多くは中国、モンゴルから来たと言う。顔や言語をみれば当然だろうが、いつ頃、どのような経路で来たのかは、帰ってからもっと資料を紐解くしかない。伝統家屋。千木もあり、高床式。気になったのは屋根の先端が大きく前に飛び出し、船のような形をしたものがある。インドネシアスラウェシ島の山岳地帯で生活しているトラジャ族を思い出す。そしてもう一点、彼らの衣類に宝貝が縫い付けられていたこと。長い移動の歴史の中で海岸部に居住したことがあるのか?疑問がどんどん湧いてくる。

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各部族伝統家屋

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衣装に縫い付けられた宝貝

 ナガ族全体は人口270万人を超える。モンゴロイドの彼らを、総称で「ナガ族」と呼ぶが、インド国内ではナガランド州以外、マニプール州、アルナチャールプラデッシュ州、そしてミヤンマー北西部にも居住する。その言語、方言は90近くあると言われている。親族集団ともいえる氏族までカバーするとかなりの集団になる。これは大変だ。とにかく豊かな文化が沢山あることだけは伝わってくる。

 つい最近までは生存をかけて多く部族間の対立があった。一昔前は「首狩り族」と呼ばれていた。森の中での生活は、テリトリーを含めた自然資源の奪い合いがあり、腕力や勇気は、特に男性にとっては重要な能力とされた。首狩りは若者が一人前になるためのイニシエーションであり、「人を食う」ためのものではない。勇者の証として入墨が施された。女性を娶ることも認められる。男性優位の世界。首が村にもたらされると力が満ちるとされた中で彼らの文化は創られてきた。キリスト教への改宗によって、今では首狩りも失くなったと言われるが、彼らの本気度が高い踊りを見ていると、いまでも襲われそうな気がする。

 インド、中国、ミャンマーなどの狭間にあるナガランドは、シルクロードの交易ルートからも外れ、19世紀に英国の植民地政府と接触するまで、辺境の集落だった。ナガ族はインドが独立する1日前に”独立宣言”をした。しかし、それを世界は認めなかったようだ。インド共和国が設立されるとインド領に組み込まれた(一部ミヤンマー領にもなっている)。その後、60年近く、独自の文化、民族、歴史を有している彼らは、インド政府からの独立や自治を求める武力闘争や武装勢力間の暴力に長年、苦しんできた。(注1)

 人類が 1万年かけて変化したことを、彼らはたった100年ぐらいで経験しているのかもしれない。

 

 夕方、山に日が落ちると、気温がどんどん下がっていく。僕はジャケットを着ているのでなんとか耐えられるが、彼らは半裸のような状態。焚き火のそばで暖を取り始めた。夜になるともっと色んなことが見れるのだろう。近くのキャンプ場に宿泊すれば良かったと思うようになる。まあ、明日も来ることだから今日はこれぐらいで引き揚げよう。 

 

 混沌としたインドを旅する中で、その気はなくてもいつも頭のどこかに浮かんでくることがあった。「民族」と「宗教」。一人で旅をすると、とにかく考える時間がある。

 地球上の多くの人々が、「平和」を望んでいる。しかし、「宗教、民族」を語らずにこれを解決するのは難しいと思う。昔も今も、戦いはここから始まっているような気がする。「政治、経済」という人もいるが、僕に取ってはこれらは宗教民族の上に乗っている概念と思う。そして世界の多くの国々では、小さな時から宗教、民族の問題を実感しながら社会生活を送っている人が、今の日本より多くいるに違いない。「生きる」中で、この課題を真剣に考えた個人は時として成長の糧にし、またあるときには憎悪や復讐といった形となリ、世界を困惑させる。

 難しい話だな、と自分も思うが、チャンスに何度も遭遇する今回の「旅」だから仕方がない。逃げないで考えていくことが旅を面白くさせるだろう。ナガランドは、そんな僕に取っては、醍醐味ある場所だ。特に「民族」については。。

 いまだに「日本は一つの民族」と発言する政治家もいるが、極東の島国に住んでいた僕は、若年時を振り返えって「民族」という言葉にそれほど関心なく育ったと思う。島根の片田舎で育った僕は10歳まで、顔や髪の色、言葉が違う人と会ったり、見たりしたことはなかった。ただ、父や母は「あの人は朝鮮人」という言葉を口にしていたのを思い出す。だが、子供だった僕は、彼らの子供と一緒に遊ぶことはなんの抵抗もなかった。おそらく、自分が差別される側の立場ではなかったからで、友達がどう感じていたかはわからない。父母もそうだっただろう。別に一緒に遊ぶなとは言わなかったから。あるインターナショナルの小学1年生のクラスを覗いた時、びっくりした。日本ならひらがな、カタカナの勉強を一所懸命教えている頃だが、毎日、手をつないで踊ったり歌ったりしている。先生は、「言葉、肌や髪の色が違う子どもたちが友達になるため。受け入れる力を養うことも教育」と目的を教えてくれた。人の感情(emotion)は、時としてコントロールできない。社会の中で上手くいかない時、恨み、妬み、嫉みなどを作り出してくる。こうした不満や不平の原因を探す上で、「民族」という言葉は格好の言い訳のひとつだ。境界線もわかりやすく、集団をつくる上で扇動しやすい。戦前の日本やナチスドイツを見てもはっきりしている。敗戦後に育った僕は、おそらく意図的に、民族意識を持たないよう新しい教育基本法の中で育てられたからだろうか、この民族という単語に対して鈍感だった。再びこの言葉が至るところで吹き出し始めている昨今、やっぱり自分で「考える」しかないとナガランドの寒いゲストハウスの中で思った。

(つづく)

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コニャック族の女性は銃を持つ

 注1:「ナガランド民族社会主義評議会」(NSCN)は,1980年,ナガ人による独立国家樹立を目的として設立された武装組織である。1988年,インド政府との和平交渉をめぐり,イサク・ムイヴァー派(NSCN-IM)とカプラン派(NSCN-K)に分裂し,さらに,2011年,NSCN-Kからコレ・キトヴィ派(NSCN-KK)が分派した。NSCN-IMは,1990年代中頃からインド政府との対話を開始し,1997年8月に停戦に合意した後,2015年8月,インド政府と和平協定を締結した。また,NSCN-KKは,2012年4月,インド政府との停戦に合意し,以後,停戦合意を更新している。(公安調査庁資料より)