toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2023 古稀のバックパッカー㉗ 桜蘭、ロプノール


 「ローラン(桜蘭)」、さまよえる湖「ロプノール」

 玄奘三蔵の帰途をなぞってインドから線を引いた僕のタビは、ホータン(和田)であえなく計画中止となったが、その前にぜひここだけは寄っておきたいと思った場所がチャルクリク(若羌)だ。

 ウルムチに向かう前に少しでもいいからと途中下車した。人口3万程度の小さな街でウイグル人だけでなく、明らかにモンゴルの顔つき、体つきをした人たちの姿を見かける。漢字では若羌と書くが、モンゴル語で「チャルクリク」と呼ばれている。

モンゴル系とわかる子どもたちもいた。学校に行くためバスを待っている。

 若羌はシルクロードの歴史を語る上でとても重要な桜蘭、ロプノールがあるところ。

 「楼蘭」の名前が初めて歴史上に現れたのは、司馬遷の「史記」。 紀元前176年、匈奴冒頓単于前漢の文帝に送った親書に「楼蘭以下二十六国を完全支配下に収めた」と記したことを伝えている。今から二千年以上も前のことだ。 天山南道、西域南道の分岐点に位置していた楼蘭は、砂漠の中のオアシス都市として繁栄を極め、紀元前七十七年に漢に降伏し「ピチャン」と国名を変えた後も漢の「西域三十六国」を治める軍事拠点として栄えた。

  しかし、644年に玄奘がインドから唐へと帰国する際には全くの廃墟となっていた。「城郭あれど、人煙なし」。「大唐西域記」で玄奘はこのように記している。これ以後、楼蘭は歴史から全く消え去ったとされている。

 ここは早い段階から仏教の強い影響を受けた。3世紀の楼蘭の仏教は極めて組織化されていた。僧団(サンガ)は楼蘭支配下の各オアシス毎に設立されていたが、これらは中央の大僧団によって統制されていた。西暦400年、玄奘以前に楼蘭を訪れた中国僧・法顕は、「4000人の僧侶がおり、上座部仏教を学んでいた」と記している。

 井上靖著の小説「楼蘭」を読んだことがある。小説というよりは史書のような趣きで、どこまでが創作でどこからが史実か分からなかった。古い小説だがタビの出発前に再読、歴史や地理がわかるにつれて引き込まれた。かつて存在した都市。西洋的なローランと言う地名もロマンを掻き立てた。「さまよえる湖」ロプノールが人々の生活を潤し、シルクロードの要衝として、交易が栄えた。桜蘭古城跡はチャルクリク(若羌)から北東200キロの砂漠の中にある。現在は中国政府によって外国人による調査禁止だけでなく観光客としても立ち入りできないが、近くまでは行きたいという憧れがあった。そして、チャルクリクでは出土品を集めた桜蘭博物館が約10年前に開館した。

桜蘭博物館

 ロプノール湖は、カラコルムパミール、そして天山山脈をはじめ、タリム盆地を取り囲む山々の雪解け水を集めるタリム川が流れ込んでいた。湖から流れ出る川はない。湖水は強い陽射しで蒸発するか地中に浸透して消えていくため、次第に塩分が蓄積して塩湖となった。紀元前一世紀の頃にはまだ大きな湖であったという記録が残されているが、四世紀前後に干上がったと見られている。(wikipediaより)玄奘が訪れた時にはすでになかった。

周辺地図

 「楼蘭の美女」

 かつての古城桜蘭は洋の東西をつなぐ要衝として栄えた桜蘭だが、それを更に遡ること一千数百年以上前にも人々が生活していた。楼蘭鉄板河遺跡で1980年にミイラが発掘された。名付けて「楼蘭の美女」。推定では3800年前に埋葬されたもので、身長152センチ、血液型O型、死亡した推定年齢は45歳。眼は深く、鼻は高く、髪は黄褐色、南ロシアから南下してきた白人系人種(コーカソイド)と考えられている。明らかにヨーロッパ系の人種である。一躍世界中にシルクロードブームを引き起こした。

 乾燥した砂漠の中で眠り続け、発掘された時は全身が毛布でくるまれていた。『毛布は胸で合わさり、木製の針でとめてあった。頭にはフェルトの帽子を被り、足には羊の皮の靴を履いていた。帽子には雁の羽が二本さしてあった。頭の近くには、草で編んだ籠が置かれていた。胸元の木の針をはずし、毛布を広げると、上半身は裸身であった。下半身には羊の皮の下着を着けていた。顔は黒くなっているが発掘時には白かった』と記録されている。ミイラは現在、ウルムチにある新疆ウイグル自治区博物館で保管展示されている

復元した「楼蘭の美女」(トリップ・アドバイザーから)

 

 中国の歴史記録以前にも、ここには多くの民族が交差していたことがわかった。異なる民族との混血が進んでいても不思議ではないが、DNA検査分析では当時の彼らは遺伝的にはそれほど多様ではなかったのだ。未知の点についてはこれから調査研究によって事実が明らかになってくるだろうが、僕はこのタビで、パキスタンで出会ったカラーシャ族のことを思い出した。今でこそ、多数の民族と混血化しているが、白人のような美人が多いところだった。(参考:古稀バックパッカー⑪チトラル・カラーシャ族)

 このミイラを埋葬した人たちはその後どこに行ったのだろう。謎はどんどん深まる。一千年にも及ぶ空白期間の謎がどのように解明されるのか期待していると同時に、不安もある。今の中国という国は自分たちの領土を守るために歴史を持ち出す。僕は中国入国する際に中パ国境で持参した地図が中国政府のものと異なるためにこっぴどく叱られた。漢民族が領土保全のために歴史的マイナス資料となる場合、隠蔽することもあるかなーとちょっと心配する。

 チャルクリク(若羌)滞在はたったの12時間。朝から博物館周辺を散歩したが、開演時間は10時から。僕は再び11時発の列車でウルムチに向かわなければ、北京行きの飛行機に乗り継ぐことができなくなるため閲覧することができなかった。

古稀バックパッカーのタビ」を諦めずに続けるとしたら、次回はこの桜蘭博物館からスタートして、北東の敦煌に向かうことになるだろ。

チャルクリク駅