toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2023  ウィズコロナの旅は続くよ(カンボジア編)最終回 

その⑭ アンコール王朝の滅亡

 12世紀に造られたアンコール・ワット。そこから300年も経たない1431年、アンコール王朝はタイで14世紀に興ったアユタヤ王朝の軍による侵攻で陥落し、600年続いたアンコール王朝は終わりを迎えることになった、とされている。戦争で国が滅びるというのは、西洋の歴史の中でよくある話でわかりやすい。しかし、ローマの衰退などにも見られるように、長いタイムスパンで見ると、敵対勢力による外部圧力よりも、内部から崩壊していくが本質かもしれない。また、外部条件としては自然環境の変化・災害なども継続的な生活ができないというもっと大きな原因となっている。
 アユタヤ王朝の侵攻による滅亡という通説以外にも、滅亡につながった理由があるのではないか。滅亡は多くの要素が複雑に絡み合って起こったものだと歴史学者たちは考えている。

アンコールトム

 まず、宗教との関係。
 アンコール・トムのバイヨン寺院を創建したのがジャヤヴァルマン7世については、このはてなブログ「その10 仏教徒ジャヤヴァルマン」でも述べた。彼の治世においてアンコール王朝は最もピークを迎える。彼がそれまでの歴代の王と大きく違っていたのは、ヒンズー教ではなく仏教を信仰、国とあり方が大きく変更したこと。これにより王朝において、ヒンドゥー教寺院から一変、仏教寺院の設置が進み、病院や宿所といった福利厚生制度を大規模に整備した。仏教的な思想に基づくのかもしれない。歴代の王は、ヒンズー教の信仰をベースとして神々と交信し、現世を支配する言わば「現人神」たる存在として君臨し、人々の信仰を集めていた。つまり、ヒンズー教から仏教に様変わりすることで、おそらく王政やその支配体制にも少なからず変化があったものと考えられ、歴史研究者の間では、盤石な王政に揺らぎが出始めたのではないかとの考えている。ヒンズー教では、中央政権が寺院の創設や維持に一定の援助をすることで地方支配体制を維持してきた。一方、仏教の台頭によりそのような支配体制が成立しなくなり、各地域独自でパゴダ(仏塔)を造り仏教信仰が浸透している。そして、王も悟りを求める求道者となっている。ジャヤヴァルマン7世は、かなりの政治力を持っていたが、後継者となるジャヤヴァルマン8世は、再びヒンドゥー教の推進を進め、それまで寺院に彫刻された仏彫刻を破壊するなど半ば強硬的な支配をし、再びヒンズー教回帰を図ったが、一度仏教に回帰したことで、上座仏教が庶民の間に少なからず浸透し、その後のアンコール王朝の王政に影響を与えたのは間違いないと言われている。このことは、13世紀以降、アンコール王朝でのヒンズー教の石碑の建設が少なくなって行くことからも明確になっている。ヒンズー教から仏教への移行は、いわば、中央集権から地方分権のようなシステムを作り出したのかも知れない。それによって中央の王政に揺らぎが出始めたのではないかとの考える歴史学者もいる。

 二番目に、地方経済の活発化。
 アンコール王朝が始まる以前から東南アジア地域では海路を利用した中国との交易が盛んに行われてきた。アンコール王朝時代でも、アンコール・ワットを創建したスールヤヴァルマン2世は積極的に当時の中国と交易を進めたことが知られている。そして、中国とアンコール王朝の交易は14世紀後半、1371年から1419年にかけてピークを迎えるが、交易の中心は、海路を利用していた。陸の平野に都城を構えていたアンコール王朝は、トンレサップ湖メコン川を経由し、海から遠く離れ、必ずしもアクセスが良いとは言えなかった。中国との交易においてより海に近い港町の方が経済力が増し、アンコール王朝の支配コントロールが難しくなったという説と、上記の中央集権力の低下に伴い、自ら衰退したとの説もある。

 そして最後に大規模な気象変動、自然災害が原因とする説。
 王国の滅亡に関しては過去、多くの歴史学者が、残された記録の読み解きや周辺地域との関連性から、歴史を紐解こうとしてきた。しかし、最新の科学技術を利用して、過去の自然状況や埋没している遺跡を通して当時の全景を理解しようとしようとしている動きがある。
 かつてのアンコールは、現在見られるような雄大な自然に囲まれた寺院.ではなく、人々が暮らす街の中心だった。ジャヤヴァルマン7世の時代、アンコールはクメールの隆盛を象徴する城塞都市で、当時としては記録的な75万人が暮らしていたとされる。窪地や道路、寺院で働く人々が生活していたであろう住居に囲まれた生活地であったことが確認されている。
 2000年、オーストラリア、フランスとカンボジアの研究チームがNASAの協力を得て、レーダー調査を開始。NASAが提供した地表下の地形を示す映像によって、寺院を取り囲む道路、運河、池の場所が判明。地上調査の結果と合わせて、この地域を特徴づける道路と運河がアンコールの城壁を遙かに超えて広がっていたことが分かり、都市は現在のアンコール遺跡から南北に20-25キロまで広がっていたと結論づけた。南はトンレサップ湖に至る。2012年には、上空からレーザースキャンする技術を使って専門家たちが調査を行ない、都の範囲は約1,901平方キロメートル以上だった。調査を進めたシドニー大学のDamian Evans氏は、「破壊された堤防や、応急措置を施された橋やダムの跡を発見した。時代と共に、広大な都城が維持できなくなったことを示している」と述べる。「都市の規模が巨大で、農業開拓も徹底していたため、アンコールでは数々の深刻な環境問題が発生した。森林伐採、人口過多、表土流出、土地の劣化、洪水などが住民に大きな影響を与えた」と推察する。

当時の居住区域は3000平方キロ、人口は75万人と言われている。
Diachronic modeling of the population within the medieval Greater Angkor Region settlement complex(Damian Evance他)

 雨季(6月~10月)と乾季(11月~5月)がはっきり分かれるモンスーン気候が特徴の東南アジアでは、水の確保と稲作による安定的な食糧生産技術が国の存続に欠かせず、アンコール王朝も例外ではなかった。近年の水質気候調査により、アンコール王朝が衰退へと向かっていた14世紀後半から15世紀にかけて、大規模な干ばつが発生していたことが分かっている。この大干ばつは1345年から1374年にかけてと、1401年から1425年にかけて発生していたとみられている。異常気象による大干ばつが発生した一方でこれらの期間の間には異常なモンスーンが発生したと考えられる。安定的な稲作や水源管理のために大規模な水路ネットワークを国中に敷いていたと考えられているアンコール王朝で、水源管理・灌漑の重要な役割を担っていたのが「バライ」と呼ばれる大きな貯水池。水質気候調査では、最も大きな西バライでは13世紀と14~15世紀にかけて、土砂の堆積が進んでいたことと、干ばつの痕跡が見つかっている。その一方で異常なモンスーンの発生時には川や池から水が氾濫し、人々の居住エリアにまで水が流れ込んでいたことも判明しており、このような異常気象によってアンコール王朝の灌漑、水源管理の機能が破綻し、王朝の衰退を招いたのではないかと考えが強くなっている。

 はたして本当に外部からの侵略によって滅びたのか、そのほかにも改宗を原因だとする説、あるいはモンスーンの影響や制御不能になった治水灌漑システムなど...多くの考古学者や歴史家によって諸説唱えられるなか、まだまだ専門家たちによる研究は続きそう。そしてある日、驚愕的な事実が発見されるかも知れない。
 
最後に
 最近の調査では、アユタヤ朝による侵攻が行われた後、アンコール・トムは陥落し一時的に放棄されたものの、アンコール・ワットを含むそれ以外の領地では絶えることなく人々の生活の跡が残されていることが分かっている。アンコール・トムにおいても、もともとは11世紀に造られたBaphuon(バプーオン)も15世紀に仏教寺院としての機能を持たせるために、誰の指示のもと行われたかは不明なものの、一部改修が行われた。アユタヤ朝はアンコール王朝を侵攻したものの、いわゆる植民地化や完全な支配関係を築いたのではないのではと。侵攻後もクメール人を重用し、彼らの文化や技術を尊重、融合する形で統一を図ったのではないかと考えられている。アンコール・ワットは16世紀ごろには仏教寺院として生まれ変わっていることもあり、陥落後もアユタヤ朝仏教徒がここに居住を構え、大切に守り続けていたのかもしれない。

 アンコール朝の興亡について興味がある方は訪れ、その遺産と自然環境を満喫してください。知れば知るほどアンコール王朝と、その衰退について興味を持っていただけると思います。

「2023 ウィズコロナの旅は続くよ(カンボジア編)」終了。 

 

(次回から)
 中国の観光ビザが今年3月から許可されるようになり、ウィズコロナからアフターコロナの時代になったようです。
 いよいよ、インドからパキスタン、クンジュラブ峠を超え、カシュガルへ。シルクロード西域南道を通り、敦煌西安へのタビを目指します。
 本来なら2020年の計画でしたが、コロナのため3年遅れ。その間に体力も衰えました。69歳の誕生日、8月4日に出発予定。

   

「2023 アフターコロナの旅は続くよ(玄奘三蔵の道編)」(仮題)

                          乞うご期待