toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅⑰ Tamu 、Myanmar (Sorry,only Japanese)

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外国人用インド・ミャンマー国境 右下は地元住民用

⑰ インドーミヤンマー国境の町、ミャンマー,タム(Tamu)へ 

 

 海に囲まれた島国の僕としては、陸路で国境を超えるたびに緊張、そしてワクワク感を覚える。なんたって、さっきまで使っていた通貨が使えなくなる、言語が違う、社会ルールが変化する。まあ、実際には陸路の場合、そんなに一気に変化せず、2つが混じり合った部分が出てくる。例えばタイ北部と国境を接するミャンマーのタチレクでも、ラオスのホイサイでも土地の人は当然、タイ語を話す。お金もタイバーツのほうが使いやすいぐらいだ。法が違うということは、少し日本人には理解しにくいかもしれない。Aという国で容疑をかけられてもBという国ではそうはならない。お金を使ってプライベートジェットで高飛びしたカルロス・ゴーンの例をとれば理解できる。国からの逃亡は良く聞く話しだ。「ビルマ民主化闘争の中で、多くの少数民族を匿ったよ。また反対にインド政府の追求からビルマに逃げたナガ族もいる」とインパールであったヴィシさんは話してくれた。タイからラオス政治亡命した人も多い。職務怠慢容疑をかけられたインラック前タイ首相も判決前にカンボジアに逃げた。僕の周りでは、麻薬関連で官憲の取り調べを受けそうになった山岳民族がラオスに長年逃亡した。国境付近には国籍を持たない人々もいるが、2重国籍者が多いのが現実だ。良くも悪くも、陸路国境ではいろいろな物語が繰り返されることは知っていたほうが良いだろう。

 国境では出国と入国という管理があり、どちらかで拒否されたらどうしよう。特に出国はしたが、入国拒否された場合、どこに行けば良いか。映画「ターミナル」のように空港内で暮らすことも無理だ。ここの場合、橋の上になる。距離20メートルで暮らすのは無理だ。そこは辺境の地、いろいろな手段があるのだろうなと思ってしまう。北朝鮮から中国に逃れ、タイを経由する難民は、チェンライのイミグレに自分たちで出頭する。つまり逮捕される。その時に彼らは安堵の表情をするそうだ。これで北朝鮮に引き戻されることはない。その後、バンコクを経由して韓国に行くとその筋の関係者から聞いた。彼らが「難民」だったら、国連高等弁務官事務所にいかなければならないが、そうではないらしい。

 

 さきほど行った地元民用の国境は物流で賑わっていたのに、外国人用の国境橋は人がいない。車が一台通れるほどで警備員もいない。隣り村に行くって感じ。本当に国を跨いぐ緊張感はまったくもって失くなってしまった。

 橋を超え歩いて1分、道路脇に小さなな事務所。ミャンマー側のイミグレ小屋(失礼!)がある。映画館のチケットを買うような窓口があるだけ。両替所も食堂も土産物店もない。開通してもう1年半近くなるのになにもない。まあ一日あたりの利用客が少ないから仕方ないか。到着すると2人が入国手続きを待っていた。この新しい国境を通過するのは、物好きなバックパッカーぐらいだろうと思っていたが、持っている荷物が違う。どこか生活感がある荷物だ。パスポートを見るとネパール人。そして対応していた職員もネパール語で会話している。

 職員らしき人は、「ミャンマーにはたくさんのネパール系ビルマ人がいる(Wikipedia:Burmese Gurkhaによると31万人)」と言った。 僕らはあまり知らないが、ASEANの西にあるミャンマーと南アジアの歴史は長い。最近はロヒンギャ問題に注目が当たっているが、イギリス領インド帝国ビルマ州としての時代、インドから沢山の移民があり、その一部は土地に根を下ろしたと聞いている。国境を接しないネパール人が、ミャンマーにも多くいるという話に驚いた。仏教が関連あるのかと思った。ブッダガヤでもネパールの寺院を見た。しかし、どうもそれだけではないようだ。

 カトマンズでトランジットしかしたことがない僕はネパールを知らないが、彼らは早くから英語による教育を受けている。ご存知のようにネパールは山に囲まれ、自然は豊富だが、土地は肥沃ではない。エネルギーや鉱物などの資源にも恵まれていない。産業は主に農業か観光になる。カースト制の下の層にいる人たちが経済的に裕福になりたいと、多くが他国で稼ぐというマインドが備わっているように思える。精悍なグルカ兵もしかり、歴史は長い。インパール作戦でも日本兵と対応したのは彼らだった。地元民収入の20倍を稼ぐといわれるグルカ兵の雇い主は、イギリス軍だけでなく、世界で紛争がある国連(PKO)である。

 同じような地形に住むナガランドも、農業と観光を目指している。産業はない。若者は英語能力を活かして、インド国内なけでなく、海外での仕事のチャンスを待っている。そして非合法ではあるが、兵としての仕事、民族戦闘部隊も職業のひとつかもしれない。素直さと忠誠心が強いところもネパール人と重なり合う。 

 したたかなネパール人は、このミャンマーでも家族、親族をベースに経済的な基盤を作ってきた。この後、カレーミョという町で宿泊することになるが、夜、インド料理店に入った。そしたらオーナーはネパール人だった。軍事政権の中で、ミャンマーから逃げ出しタイへ行った者もいる。バンコクにあるインド人街、インド料理店、食材店、服の仕立て屋はネパール人が多いと友人から聞いたことがある。そして彼らの多くが、ミャンマー国籍を持つネパール系ビルマ人。彼らのようなたくましさを僕ら日本人も持つ必要がある時代が来るのかもしれない。政府だけには頼っていられない。

 

 僕らが学校で習っていた頃は、ミャンマービルマと言っていた。英語ではバーマ。支配しているビルマ族の名前だ。しかしこの国も数多くの少数民族が住み、人種のるつぼ。ビルマ族中心の軍事政権による閉鎖的な国管理で、開発が遅れた。1948年、独立を勝ち取ったすぐ後から、各地の少数民族は自分たちの権利、自治を主張した。そして2015年11月の総選挙で、NLD(国民民主連盟)が勝利し、やっと「事実上のスー・チー政権」がスタートした。民主化後、ASEAN最後のフロンティアとして各国が投資をしているが、おそらくヤンゴンマンダレーなどの都会だけだろう。田舎町なので、比較できないがインドの急速な経済発展のスピードとは明らかに違う。まあ、僕はこういう雰囲気のんびりとした所が好きだけど。

 

 イミグレからミャンマー最初の町、タム(Tamu)の市場までは3キロ離れていた。タクシー、バイクタクシーもない。インド人の渦から逃れ、ホッとしたが、人がいないと言うのもそれなりに困る。徒歩で町をめざす。大木の並木道。木陰で熱帯の暑さは凌げる。そしたらバイクが止まってくれた。「タムまで行きたいんだけど」と言うと、後ろに乗せてくれる。まずは両替したいので銀行へというと、玄関まで横付け。僕は覚えたばかりのビルマ語「チェーズー・バーベー」。インド人と比較するとフレンドリーな反応はないが、観光ズレしてないところは、旅行者にも優しいな。銀行では、残念ながらインドルピーの両替は取り扱ってないと言われたが、道路まで担当者が出て、道の向こうの雑貨店を教えてくれた。「闇両替をやっている」と。

 

 インパールを早朝に出たのは、タムからマンダレー行きの夜行バスが午後には出ていると聞いたからだった。僕がこの町に到着したのは午後1時。しかし30分前にバスは出発したとのこと。どうしようかなと迷っていたら、130キロ南、チン州への入り口、カレーミョ行きの乗り合いタクシーが3時に出るという。タムに一泊しても良いが、予定より遅れている旅なのでそれに乗ることにした。

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カレーミョ行き乗り合いタクシー

 市場を歩き、簡単な食事を。昼間のことなので、ここもゆっくりしている。女性たちは、日焼けどめのタナカを顔に塗りつけ、笑顔がかわいい。インドでは探しにくかったビールもある。物価も安い。いずれ政情が安定し、タイ、ミャンマー、インドの間で交通インフラができあがり、物流の大動脈になれば、この町もアジアハイウェイ1号線の要所としてこんなゆったりした雰囲気は無くなるのだろうなと思う。そのころには僕も気軽に歩き回ることも出来ない歳になっているだろう。

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昼の市場、ほとんど人がいない。

 カレーミョにむけて、ワゴン車は定刻スタートした。アジアハイウエー1号線を南下。ほとんど真っ直ぐた。すれ違う車はほとんどない。右手にアラカン山脈を望み、収穫した米を自然天日干しする農村風景を見ながら、僕はウトウトし始めた。舗装された道幅は狭い。さらに橋幅が一車線しかないため相互通行、スローダウンする。130キロの道のりだが、結局3時間かかってしまった。途中、ミャンマー側でも、僕(外国人)は2回の検問があった。車からパスポートを見せるだけ。インドに比べて、警察はとても愛想良かった。(つづく)

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ラカン山脈、農村風景。アジアハイウエー1号線