toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2023 古稀のバックパッカー ⑥世界遺産タキシラ

世界遺産 タキシラ史跡(Taxila)

僕のタビは、仏教関連のタキシラ遺跡群を目指す。玄奘三蔵はインドへの往路時に、タキシラを訪れている。

 ここは紀元前3世紀から5世紀にかけての都市遺跡が交差した地点、かっては政治経済の中心だった。「かって」と言っても2000年前の話だ。大雑把にいうと日本では稲作が始まった弥生時代かな。すでに仏教が広がり、都市建設が始まっている。世界四大文明インダス文明ギリシャの影響を受け、陸路を通じて国際化が広まっていた。タキシラ(Taxila)はその中心地だった。

 東のインドに向かう道、西のペルシャに向かう道、そして北に向かうとシルクロードに向かう道がここで交差していた。インダス川の支流が流れ、後背部のヒマラヤ、パミール高原(Pamir)の地形が防御上からも都をつくる地理的条件として揃っていたのだ、と現地を訪れ容易に想像できた。

 当時、世界の片田舎だった日本と比べると、宗教、文化においてかなり先進地であったはずだ。もちろんイスラム教が生まれる前の話だ。時空のスパンを広げてみると、インダス文明ギリシャの流れを受けたガンダーラの輪郭がおぼろげに浮かび上がり、仏教美術が花を咲かせたことが見え始める。僕の好奇心は否が応でも高まった。事前に資料を調べれば調べるほど、仏教伝来を目的の一つとしているこのタビでは何はさておいても訪れる場所だと確信した。

 当然のように、「ラホールからも直接行ける交通機関があり、周囲は賑わっているので宿泊先を探すのも簡単」と勝手に想像した僕がどうも間違っていた。イスラマバードからペシャワールに向かう高速道路からも外れている、鉄道を利用すれば可能だったが、友人は良く事故が起きるし、遅れることが多いから止めたほうが良いと言う。ラホールからバスに乗って大都市ラワールピンジーに向かい、そこからタクシーに乗り継いでやっと目的地に到着した。

 道に大きな穴が空き、かろうじて舗装されているが、乾季には砂塵が舞いそうな道の先にタキシラはあった。予想した「ここがあのタキシラか」という感慨がまったく起きない。。。。申し訳ないが「ただの農村」。「強者どもが夢の跡」に見えた。おそらくタクシーの案内がなければ、通り過ごしてしまうような町。

 1980年にユネスコから指定された「世界遺産(1978年から)」にもかかわらず、史跡看板なども少ない。それもかなり古くなっており、はっきり読めない。暑くならないうちにと朝から点在する訪問した遺跡先の中には、管理者がなかなかドアを開けてくれない場所もあったし、入場料も一定していなかった。

 イスラム国家パキスタン。異宗教の文化遺産かもしれないが、埋蔵品の素晴らしさに相当する環境整備はあまりなされてない。日本では、世界遺産となれば、インフラが整備され、官民挙げて一大観光地として仕立て上げるが、そんなイメージは僕の勝手な妄想だった。

 世界遺産の目的は、「文化遺産及び自然遺産を人類全体のための世界の遺産として損傷、破壊等の脅威から保護し、保存するための国際的な協力及び援助の体制を確立すること」としている。あくまで観光は副産物なので、日本のような状況をつくる必要はない。しかし世界各地から訪れるであろう人々のために、もう少し地域内に散らばる遺跡を巡る交通機関整備やツアーガイド、遺跡地の入場管理を含めて、改善される余地があるのではないかと考えてしまう。

 ただし、タキシラのために付け加える。世界的規模の重要な遺産が残っていることは確かだ。まだまだ発掘されてないものがたくさんある。そして、環境整備されれば、訪問者を満足させ、リピーターにする材料はたくさん揃っている。

「オーバーツーリズムにならない程度には頑張って欲しい」と博物館の菩提樹の下で思いに耽けた。

アレキサンダー「インド征服地図」(資料)
Map of Alexander's campaigns in India. Personal creation 2007. Reference "Diodorus of Sicily", Harvard University Press.

タキシラの遺跡群

 さて、「世界遺産」にもなっているこのタキシラにはどのような遺跡が残っているのだろうか。紀元前6世紀から5世紀にかけての約1000年の史跡が並ぶ。古代ペルシャのアケメネス朝から始まり、紀元前326年、ギリシャアレキサンダー大王(アレキサンドロス)がこの地を訪れたとしている。そしてインドのマウリヤ朝アショカ王、そしてクシャーナ朝カニシカ王がこのタキシラの仏教の歴史を作ってきた。とにかく、西、東、そして北から入ってきた文明が交差し、莫大な歴史がある。時系列で並べようとしても、浅学非才の僕ではなかなか理解することができない。困った。2日間では時間も少ない。もう一度、頭を整理し、今回の訪問はやはり仏教遺跡にスポットを当てることにした。それにしても、世界史を把握するには宗教をベースにしたほうが良いとつくづく感じる。

 当然、このブログを読む人も専門家でもない限り、なかなか理解に苦しむと思う。高校で習った世界史の知識だけでは聞き慣れない単語も多いと思うので、興味ない方は、写真でも見ながらさっと飛ばして下さい。

 

 僕は仏教関係を中心に3つの遺跡とタキシラ考古学博物館を訪ねた。(参考:ウィキペディア

1.ダルマラージカー(Dharmarajika)

 パキスタンにおける最古の仏教遺跡。建設はマウリヤ朝アショーカ王の時代に遡る。仏教に帰依していたアショーカ王は、仏陀の聖遺物を収集し、8つのストゥーパ(仏塔:仏や聖者の遺骨や遺品を埋めた跡に煉瓦や土で造った土饅頭型の記念碑)に分納した。ダルマラージカーは、そのようなストゥーパの1つであり、メイン・ストゥーパ高さ15m・直径50m。周囲には、小ストゥーパ群が建設され、小ストゥーパの建設は4世紀まで続き、また、多数の祠堂や僧院が建設された。

高さ15メートルの仏塔。上部は残っていない。

2.ジョーリヤーン(Jaulian)

 ジョーリヤーン(Jaulian)は、タキシラを一望することができる丘の上にあった。2世紀のクシャーナ朝時代に建設された。メイン・ストゥーパの周囲には小ストゥーパ群が展開していると同時に、様々な彫刻群が施されている。メイン・ストゥーパの東側に僧院が広がっていた。僧院の在りし日の姿は中庭を僧坊が囲む形で建設され、ここの管理者によると、僧院は仏教の勉強をするための「大学」のような存在だったという。

周りの僧坊では、選りすぐられた僧たちが生活をしながら修行研鑽を重ねた

ストゥーパの周囲に並ぶ仏像

3.シルカップ(Sirkap)

 シルカップはタキシラの対岸に位置し、紀元前190年頃からバクトリアギリシャ人によって建設された。2世紀にクシャーナ朝により、シルスフが建設されるまで首都としての機能を有していた。7層の都市遺跡があるが、現在発掘されているのは上2層のみ。まだまだ発掘途中の段階で、紀元前の遺跡は埋まっている。町を南北に貫くメイン・ストリートの存在、碁盤目状の都市形態であり、家屋は石灰岩のレンガを積み上げた上で、その上を泥や壁土で塗装したものも見受けられる。北に置かれたメイン・ゲートから南に100mのところには仏教寺院が設けられ、さらに、南には双頭の鷲のレリーフを彫りこんだストゥーパが建設されていた。インド、ギリシアペルシャの3つの文化の融合を示す象徴で、南部は王宮であり、謁見室やハレムが設けられたと言われている。

シルカップ空撮(タキシラ博物館資料より)

4.タキシラ博物館

 一帯の遺跡からの出土品が展示されているのがタキシラ博物館 Taxila Museum。パキスタンイギリス領インド帝国の時代に建てられ、1928年に開館した大変古い博物館。タキシラ周辺で発掘されたものが収蔵されている。博物館内は緑豊かで、菩提樹の大きな木のあったが、展示品等にレプリカが多いのが気になった。また、博物館職員が、頼みもしないのにガイドを兼ねている。更に昼の休憩時間が12−14時まで2時間もあり、時間調整が難しい。ユネスコ世界遺産の指定を早くから受けており、ここの史跡の中心的な存在となるのに、予算不足ではないかと気になった。

注:今年度、JICAは無償資金協力案件としてタキシラ博物館機材整備計画(4,880万円)を締結した。

タキシラ博物館

 タキシラで宿を見つけられないために、博物館の職員に教えてもらった高速道路沿いの近郊のホテルに、オートリキシャとサイクルリキシャを合体させたような「チンチー」に乗って向かった。2日間のタキシラ訪問。なんとなく頭は消化不良になりながら、次の目的地、ペシャワール(Peshawar)に先を急ぐ。