toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2023 古稀のバックパッカー㉑ カシュガルの街、人々

 パキスタンペシャワール以来、ヒンドゥスタン、カラコルム山脈パミール高原と世界の屋根を歩いてきた。ずっと山の中だった。久しぶりに街に出てきた感があるカシュガル

中国最西端、新疆ウイグル自治区とはいえ立派な都会だ。「ゆっくり」を楽しむことがタビの目的なのだが、中パ国境沿いではいつ出発するかわからない乗合バスや曖昧な運賃で行程を組むのが難しくすこしうんざりしていた。あまり都会は好きではないが、たまには良い。やはり中国の都市部は公共交通機関が整備され移動がしやすい。


*交通移動

 カシュガル市内はもっぱら公共バス利用。隅々を走っている。地図アプリ「高徳地図」を使えば、目的地近くを何番のバスが通るか示してくれ、いちいち尋ねなくても利用できる。運賃は通常2元(40円)。乗る前に手元に1元札を2枚用意しておけば電子決済アプリがなくても乗車できる。下の写真のような画面がその実例だ。カシュガル博物館から、宿がある古城に帰った時のものだ。左がバスの番号で地図上のルートに沿って走る。漢字なので何とか読めるし、確認できる。

地図アプリ「高徳地図」と市内バス

カシュガル博物館

 2007年に新設されたカシュガル博物は立派なものだった。玄奘に関する歴史資料とウイグルに関する資料を探したが、玄奘の資料に関しては、石頭城博物館(タシュクルガン)に比べると少ないようだ。唐時代のことしか知らない浅学の僕にとっては他時代の様子を得ることができたが、数々の民族が入り組み、うまく整理できない。ウイグル族に関しても宗教や文化的な側面の詳細な展示を見ることができなかった。

カシュガル博物館と当時の仏像

シルクロードは大きく分けると3つのルートがある。

 天山山脈の北を通る「天山北道」。トルファンからウルムチを通りカザフスタンに抜ける。遊牧民が多く住み、盗賊などに出て安全性はあまり確保できなかった。

そしてトルファンからクチャ、アクス、カシュガルにつながる「天山南道」。名前の通り絹を主な商品とする貿易路として使われたのはこの路だ。

さらにタクラマカン砂漠の南を通る「西域南道」。タクラマカン砂漠の南端を囲むように通り、敦煌からチェルチェン、ホータンを通りヤルカンドまでつながる。

シルクロード概要図 https://sr-caravan.com/ より借用

 玄奘はインドに向かうにあたり往路は天山北路を通り、復路はカシュガルにまで到達した。この時代、疏勒国はすでに仏教を信奉しており、ある程度、安心できる旅をしたはずだ。ここから先、彼は天山南路を通過する予定だったのではないだろうか。しかし于闐(コータン)を通過する西域南道に進んだ。砂嵐や寒暖差があり、降水量が少ないために居住地もあまりない。自然条件の厳しいこの道をあえてなぜ選んだのか、博物館の中で考えた。

 玄奘が出国した当時(629)は、唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった。その事情から出国の許可が下りなかった。玄奘は国禁を犯して密かに出国する。そうした中、高昌(トゥルファン)の王が往路で彼を歓待してくれ、旅の資金援助をしてくれる。当然、帰途にはお礼を込めて高昌に向かうつもりだったろう。が、高昌は唐の襲撃によって滅亡(640)したことを知り、先行きの不安を覚え、あえて条件の悪い砂漠の道を選んだのだろう。643年のことだ。学者僧侶として有名な玄奘だが、冒険家、さらに政治家としての判断能力の高さを見ることができる。

 僕もカシュガル後は、砂漠の西域南道を進む予定だが、メインルートでなく情報も少ないだけにこれからのタビに幾分か不安は残る。

*観光地 喀什古城

 博物館訪問を終えて、青年旅舎がある「カシュガル(喀什)古城」に戻ってくる。古い町並みは現在も使用されている。土建築群としては世界最大規模を誇る。曲がりくねった路地は迷路のようだ。暑い日差しを避けるような造り。家々の壁には乾燥に強い蔓性の植物、庭先にはイチジクなどが植栽され、中央アジアの各民族が交差する街だった面影を残している。漢民族の社会ではない。タイムスリップし、歴史のトンネルに入ったような気がする。

カシュガル古城街。路地に入ると少し静か。

 中国国内は数年前から、観光業が飛躍的に発展し、それに伴い、ここの表通りには民芸品、レストラン、カフェ、貸衣装屋などが並ぶ。地元文化を伝える役割を持っているが、観光開発コンセプトはこれまで訪れた中国の他の有名観光地とさほど違いがあるわけではない。特に夜間の街全体の照明が現代風にアレンジされ、この一角が巨大なテーマパークのようになっている。すこし派手すぎるように感じるのは僕だけか。とはいえ、訪れる人々はそれなりに異国の雰囲気をたのしんでいるようだ。

車両進入禁止にしてあり、静けさを保つようにしているが、観光客の数が多いために、若干の歩きにくさを覚える。コロナ後、特に国内旅行に力を入れようとしている姿がうかがえる。観光客の多くと商店の経営者は漢人。道端で果物や野菜を売っているウイグルの人をたまに見かける。しかし西洋人観光客を見かけることはなかった。

一昔前の中国旅行では、トイレで困ったが、古城には洒落た公衆トイレが設置されてる

 こんな観光地でも住民への監視はさらに徹底している。市街地は監視カメラだらけで、数百メートルおきに警棒を手にした警察官が立ち、目を光らせる。

 この古城にこの地方で一番大きいエイティガールモスクがある。イスラム教徒が8割を超えるこの町の中心でもあるが、広場や周囲に屯する人影はまばらだ。少し様子が違う。さらにお祈りのイスラム教徒以外は入場料がいる。観光地の建築物としての役割が強調されている。社会主義の価値観、法律が信仰より強いという中国共産党イスラム教の関係がぼんやりと見えてくる。

漢人の旅人たち

 青年旅舎には若者だけでなく、色々な年齢層の宿泊客がいた。ここが観光地の中心地という立地条件だけでなく、やはり安いということも魅力だろう。長く滞在する青年たちもいる。ほとんど漢人だ。沿岸部から来たと言う青年は、大学卒業後、就職もせずにユックリ新疆ウイグルを旅しているという。イギリスに留学していたがまだ職は決まってないという。ウルムチから来た青年は、働く場所を探していると話していた。若年層の就職困難は本当かもしれない。

 一般的な傾向として、中国の若者たちは、外国人の僕に興味は示しているようだが、個人的な話になると、あまり口を開かない。アプリで友達になろうとすると遠慮しがちだ。素性の知れない人に対してはやはり警戒感を持っているような気がする。そして、写真を撮影しようとするとあまり良い表情を見せない。パキスタンではだれもかれも写真を取ってくれという経験との落差が大きい。カメラが怖い監視社会で生きているからだろうか。

 一部屋6人ドミトリーで、青海省から来た同年齢のおじさんと仲良くなった。ヒゲをはやし長髪の風貌。最初は少数民族だろうと思っていたが、漢人で中国語しかできない。彼は、翻訳アプリを利用して興味深そうに話しかけてくる。建設業をリタイヤして、ここに一人で観光に来たそうだ。もう年金をもらっているそうで、一人息子がまだ結婚していないことが気になると身内話をしてくれる。街の屋台に一緒にでかけ、新疆料理でビールを飲みながら話した。台湾や香港で出会った話好きな古い中国人に出会ったような気がした。

 

青海省から来た話好きなおじさんとビールで乾杯。