toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2023 古稀のバックパッカー㉑ カシュガルの街、人々

 パキスタンペシャワール以来、ヒンドゥスタン、カラコルム山脈パミール高原と世界の屋根を歩いてきた。ずっと山の中だった。久しぶりに街に出てきた感があるカシュガル

中国最西端、新疆ウイグル自治区とはいえ立派な都会だ。「ゆっくり」を楽しむことがタビの目的なのだが、中パ国境沿いではいつ出発するかわからない乗合バスや曖昧な運賃で行程を組むのが難しくすこしうんざりしていた。あまり都会は好きではないが、たまには良い。やはり中国の都市部は公共交通機関が整備され移動がしやすい。


*交通移動

 カシュガル市内はもっぱら公共バス利用。隅々を走っている。地図アプリ「高徳地図」を使えば、目的地近くを何番のバスが通るか示してくれ、いちいち尋ねなくても利用できる。運賃は通常2元(40円)。乗る前に手元に1元札を2枚用意しておけば電子決済アプリがなくても乗車できる。下の写真のような画面がその実例だ。カシュガル博物館から、宿がある古城に帰った時のものだ。左がバスの番号で地図上のルートに沿って走る。漢字なので何とか読めるし、確認できる。

地図アプリ「高徳地図」と市内バス

カシュガル博物館

 2007年に新設されたカシュガル博物は立派なものだった。玄奘に関する歴史資料とウイグルに関する資料を探したが、玄奘の資料に関しては、石頭城博物館(タシュクルガン)に比べると少ないようだ。唐時代のことしか知らない浅学の僕にとっては他時代の様子を得ることができたが、数々の民族が入り組み、うまく整理できない。ウイグル族に関しても宗教や文化的な側面の詳細な展示を見ることができなかった。

カシュガル博物館と当時の仏像

シルクロードは大きく分けると3つのルートがある。

 天山山脈の北を通る「天山北道」。トルファンからウルムチを通りカザフスタンに抜ける。遊牧民が多く住み、盗賊などに出て安全性はあまり確保できなかった。

そしてトルファンからクチャ、アクス、カシュガルにつながる「天山南道」。名前の通り絹を主な商品とする貿易路として使われたのはこの路だ。

さらにタクラマカン砂漠の南を通る「西域南道」。タクラマカン砂漠の南端を囲むように通り、敦煌からチェルチェン、ホータンを通りヤルカンドまでつながる。

シルクロード概要図 https://sr-caravan.com/ より借用

 玄奘はインドに向かうにあたり往路は天山北路を通り、復路はカシュガルにまで到達した。この時代、疏勒国はすでに仏教を信奉しており、ある程度、安心できる旅をしたはずだ。ここから先、彼は天山南路を通過する予定だったのではないだろうか。しかし于闐(コータン)を通過する西域南道に進んだ。砂嵐や寒暖差があり、降水量が少ないために居住地もあまりない。自然条件の厳しいこの道をあえてなぜ選んだのか、博物館の中で考えた。

 玄奘が出国した当時(629)は、唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった。その事情から出国の許可が下りなかった。玄奘は国禁を犯して密かに出国する。そうした中、高昌(トゥルファン)の王が往路で彼を歓待してくれ、旅の資金援助をしてくれる。当然、帰途にはお礼を込めて高昌に向かうつもりだったろう。が、高昌は唐の襲撃によって滅亡(640)したことを知り、先行きの不安を覚え、あえて条件の悪い砂漠の道を選んだのだろう。643年のことだ。学者僧侶として有名な玄奘だが、冒険家、さらに政治家としての判断能力の高さを見ることができる。

 僕もカシュガル後は、砂漠の西域南道を進む予定だが、メインルートでなく情報も少ないだけにこれからのタビに幾分か不安は残る。

*観光地 喀什古城

 博物館訪問を終えて、青年旅舎がある「カシュガル(喀什)古城」に戻ってくる。古い町並みは現在も使用されている。土建築群としては世界最大規模を誇る。曲がりくねった路地は迷路のようだ。暑い日差しを避けるような造り。家々の壁には乾燥に強い蔓性の植物、庭先にはイチジクなどが植栽され、中央アジアの各民族が交差する街だった面影を残している。漢民族の社会ではない。タイムスリップし、歴史のトンネルに入ったような気がする。

カシュガル古城街。路地に入ると少し静か。

 中国国内は数年前から、観光業が飛躍的に発展し、それに伴い、ここの表通りには民芸品、レストラン、カフェ、貸衣装屋などが並ぶ。地元文化を伝える役割を持っているが、観光開発コンセプトはこれまで訪れた中国の他の有名観光地とさほど違いがあるわけではない。特に夜間の街全体の照明が現代風にアレンジされ、この一角が巨大なテーマパークのようになっている。すこし派手すぎるように感じるのは僕だけか。とはいえ、訪れる人々はそれなりに異国の雰囲気をたのしんでいるようだ。

車両進入禁止にしてあり、静けさを保つようにしているが、観光客の数が多いために、若干の歩きにくさを覚える。コロナ後、特に国内旅行に力を入れようとしている姿がうかがえる。観光客の多くと商店の経営者は漢人。道端で果物や野菜を売っているウイグルの人をたまに見かける。しかし西洋人観光客を見かけることはなかった。

一昔前の中国旅行では、トイレで困ったが、古城には洒落た公衆トイレが設置されてる

 こんな観光地でも住民への監視はさらに徹底している。市街地は監視カメラだらけで、数百メートルおきに警棒を手にした警察官が立ち、目を光らせる。

 この古城にこの地方で一番大きいエイティガールモスクがある。イスラム教徒が8割を超えるこの町の中心でもあるが、広場や周囲に屯する人影はまばらだ。少し様子が違う。さらにお祈りのイスラム教徒以外は入場料がいる。観光地の建築物としての役割が強調されている。社会主義の価値観、法律が信仰より強いという中国共産党イスラム教の関係がぼんやりと見えてくる。

漢人の旅人たち

 青年旅舎には若者だけでなく、色々な年齢層の宿泊客がいた。ここが観光地の中心地という立地条件だけでなく、やはり安いということも魅力だろう。長く滞在する青年たちもいる。ほとんど漢人だ。沿岸部から来たと言う青年は、大学卒業後、就職もせずにユックリ新疆ウイグルを旅しているという。イギリスに留学していたがまだ職は決まってないという。ウルムチから来た青年は、働く場所を探していると話していた。若年層の就職困難は本当かもしれない。

 一般的な傾向として、中国の若者たちは、外国人の僕に興味は示しているようだが、個人的な話になると、あまり口を開かない。アプリで友達になろうとすると遠慮しがちだ。素性の知れない人に対してはやはり警戒感を持っているような気がする。そして、写真を撮影しようとするとあまり良い表情を見せない。パキスタンではだれもかれも写真を取ってくれという経験との落差が大きい。カメラが怖い監視社会で生きているからだろうか。

 一部屋6人ドミトリーで、青海省から来た同年齢のおじさんと仲良くなった。ヒゲをはやし長髪の風貌。最初は少数民族だろうと思っていたが、漢人で中国語しかできない。彼は、翻訳アプリを利用して興味深そうに話しかけてくる。建設業をリタイヤして、ここに一人で観光に来たそうだ。もう年金をもらっているそうで、一人息子がまだ結婚していないことが気になると身内話をしてくれる。街の屋台に一緒にでかけ、新疆料理でビールを飲みながら話した。台湾や香港で出会った話好きな古い中国人に出会ったような気がした。

 

青海省から来た話好きなおじさんとビールで乾杯。









2023 古稀のバックパッカー⑳ シルクロードの要所 カシュガル(喀什)へ

 国境の町、タシュクルガンからタリム盆地最西端の街カシュガル喀什)に向かう。中国人たちは「カス」と呼んでる。古代には疏勒(そろく)と言われ、シルクロード南路の要所となるオアシス都市。僕が通ってきた路を玄奘も降りてきた。大唐西域記では佉沙国と記している疏勒。玄奘仏教が盛んな国であると記述している。

7世紀時代、大唐西域記の地図(wikipediaより)

 現在、新疆ウイグル自治区の州都はウルムチ。だが、ここが本当の新疆の文化、歴史の中心かもしれない。僕は、カシュガルが過去においても現在においても西域を代表する町のように感じる。同じ宿に泊まっていたウルムチから来た青年がこう語った。「夜行列車で一日かけてカスに初めて来たけど、驚いた。ウルムチ漢人社会。ここはウイグル人が圧倒的に多いし雰囲気が違う」。僕も数年前にウルムチを訪れ、やっと新疆に来たと思っていたが、今回カシュガルを訪れ、街並み、人々、自然の違いを感じる。これまで持っていた「シルクロード」というイメージが浮かび上がる。中国国内かもしれないが、明らかに違う文化圏だろう。

 

 カシュガルまでは中国側カラコルムハイウェイで300キロのタビ。タシュクルガンからは毎朝バスが出ていると聞いたが、バスステーションは閉ざされ、そのような気配はない。乗り合いワゴン車が出ていると教えられ、北京時間朝9時(といってもまだ太陽は登っていない)から待っていた。満席にならないと出発しないのは、パキスタンと同じだ。徐々に乗客が集まり、10時すぎにカシュガルに向けてエンジンがスタートした。7人乗り。座席数しかお客は取らない。パキスタンならこの2倍は乗せるだろう。道路の舗装状況も良いのでこれなら楽チン。道中の苦しさを事前に予想し、準備する必要はない。中国は管理社会で厳しいと言われるが、この辺境でも交通規則は徹底されている。

タクシュクルガンからカシュガルへ乗り合いワゴン車7人乗り

 パミール高原の中を車は快適に進む。約100㌔走った後、右手にカラクリ湖が見えてきた。「カラクリ」は「黒い海」を意味するが、山々の白と青空が水面を彩り、風光明媚なところと言われ、多くの観光客が訪れるらしい。富士山頂上の標高3600mにある天空の湖。周囲は6000m以上の山に囲まれ、氷河の水が流れ込んでいる。湖の近くに集落地(村)がないため透明度もある。残念ながら、僕らの乗り合いワゴンは観光のための車ではないので止まってくれない。車窓から眺めるのみ。その代わりでもないが、途中二回、検問所でストップ。外国人の僕だけ車から降ろされ、パスポートを持って事務所に入っていかなければならなかった。その度に辺境通行許可証を持っているかと聞かれる。そんなものは持ってない。聞くと旅行などでカシュガルからタシュクルガンに行く人には辺境通行書なるものがいるらしい。パキスタンから越境してきた僕はそれを持ってないので、通常より時間がかかる。係官が本部と連絡取って確認後、最終的にはOKと言われる。さすが管理社会。

ラクリ湖(車が停車しないためにWikipediから写真を借りる)

 雪を被った山岳地帯から風景は徐々に変化しタリム盆地の端に入った。町の郊外は乾燥した平坦地。人口百万を超えるオアシスの街カシュガルだ。時計は午後2時をまわっている。ワゴン車がこの街のどこに到着するのかわからない。町の端に止まり、皆降りろと言われたが、3人がどうも約束の場所と違うと言って、運転手と揉めている。僕も街の中心に行ったほうが良いと思いその仲間に入る。車は再び動き出す。地図アプリで現在位置を見ていると人民西路を走っている。どうも予約したユースホステル(青年旅舎)に近いところを通過しているので、急遽下車。歩いて坂道を登っていくと中国風の観光地としてデザインされたツーリズムエリアに宿はあった。

路上でのイチジク販売。漢人社会とは雰囲気が違う

 しかし、チェックインをしようとすると、いきなり「できない」と言われる。英語ができる受付係は経緯を丁寧に説明してくれた。ここでは、宿泊客の行動はどうも警察が管理しているみたい。僕は昨晩、タシュクルガンの宿に泊まっているが、どうもまだ今朝チェックアウトしたという報告なされていないので、ここでのチェックインのコンピュータにアクセスできないとのこと。道路での検問と言い、どうも僕の中国入国後の動線は政府のコンピューターで管理されているみたい。これからの行動にもいろいろ支障がありそう。警察などの質問に辻褄が合うようにしておかなくてはならない。 

 とにかく、宿の電話番号を教えて、チェックアウト報告をしてもらうよう依頼、荷物をフロントに預け、チェックインが完了するまでの時間を利用して少なくなってきた中国元を確保するため街に飛び出た。

 

 中国に入って3日目。やはりこの国の歩き方は、これまでのインド・パキスタンとは違うことを肝に銘じなければならなくなった。酒も飲めるし、食物にもバラエティーがある。道路交通条件もこれまでに比べて整っている。宿もある程度清潔に感じる。が、どうもこの国で僕のような気ままに一人でタビ人には少し息苦しい。

 まず、お金の支払いだ。この国のシステムはどんな田舎に行っても、スマートフォン決済が当たり前。以前、中国を縦断し日本まで陸路と海路でタイから帰国しているが、コロナ以降、感染防止や隔離政策の中で、その利用率はさらに高くなったようだ。

 もちろん現金が使えない訳では無いが、どうもスムーズにいかない。問題点は高額紙幣での会計だ。お釣りがないとかブツブツ言われ、時には商品を受け取れないこともある。ホテルや大きな商店ではクレジットカードが代用できるが、僕のタビではあまり関係ない。やはり雑貨屋での小物の購入や町の食堂で苦労する。これは予想されたことだ。だから今回のタビではAli Payアプリをスマホにインストールしておいた。以前は中国国内に通帳口座がないとこのアプリは利用できないと言われたが、最近は日本のクレジットカードにつなげば利用可能だと言われ、大丈夫だと思っていた。

 しかし、中国に入った初日、タクシュクルガンの食堂で試したが、利用できないと言われる。事前に使用可能かどうかタイで試せば良かったが事すでに遅し。カシュガルに入って、中国人の若者の助けをお願いしてアプリを修正しようとしたが、どうも認証がうまくいかずあきらめた。少々面倒くさいが、今回も以前のタビ同様現金支払いをするしかない。

 さて、少なくなった中国元を手元に持とうと、教えられた銀行街を歩く。最初はATMで現金を下ろそうとしたが、ATMの機械が見当たらない。よく考えたら当然だ。スマートフォン決済をするのにATMはいらない。余程のことがないと必要ないので見つからない。日本もそのうち維持経費のかかるATMが撤去される時期が来るのだろう。銀行前には両替するというマークがあるのに、受付では両替を「今はやってない」と数件の銀行で言われる。最後に中国銀行でやっと可能になった。しかし、両替カウンターはなく、一般業務の順番待ち。さらに書類作成が何枚もあり、両替だけのために2時間かかった。なんでだろう。これだけスマホ決済で便利になっているのに、銀行内業務の面倒臭さ。銀行も国からのコントロールが厳しいのだろうか。

 中国のスマホ決済は2社で行われている。国は銀行を通して個人の懐事情をほとんど確認しているはずだ。中国国内の金融統計データは信用されないとされているが、実態は確実に把握され、経済的な流れや動向をビッグデータでコントロールもできるに違いないと思うようになった。管理社会、恐ろしや恐ろしや。

 

 カシュガルに来て、もう2つ学んだ。一つは監視体制。街角のいたるところに設置されたカメラや宿泊先での警察登録だけではない。移動の度にパスポートを見せなければならない。民族問題を抱える新疆ウイグル自治区だけのことかもしれないが、いつでも見せれるようにポケットに入れておくが、命の次に大事なパスポート。失くならないようにいつも気にする必要がある。精神的に良くない。 

 3番目は、自分の足で歩くために、地図アプリの問題だ。使い慣れたグーグルマップが使えない。タイのSIMを使ってローミングしているのでなんとかGoogle系のアプリは使えるが、位置情報や地図が実際とは違う。最後の最後、目的地に到達できない。仕方ないので中国製アプリの「高徳地図」をインストールする。漢字なので大雑把には使えるが、検索での漢字入力に戸惑う。中国語でなんというのかわからないと簡単に探し出せない。インド、パキスタンの方が動きやすいし、両替も簡単だった。やっぱりなれないと息苦しい。

 銀行から青年旅舎に戻るとすでにチェックインができていた。ドミトリーの部屋やロッカーはすべて番号打ち込みで作動する。紙にメモしてもらったが、桁数が多く字が小さい。老眼の僕にはすこし辛い。シャワーを浴びて、夜まで一休み。

イスラム教徒が多い割には人影が少ないエイティガールモスク


 

 

2023 古稀のバックパッカー⑲ タジク人と石頭城

玄奘とタシュクルガン(塔什库尔干)

 タシュクルガンという地名はテュルク語(トルコ系)で石の塔という意味らしい。それ故、この町には石頭城という砦が残されている。そこにも仏教の跡があった。ここはアジア(中国)ヨーロッパ、インドをパミール高原を経由してつなぐシルクロードの要所であった。標高3000mにある町。643年、玄奘は帰国時にここに約30日滞在している。

石頭城遺跡

 石頭城博物館を訪問して、玄奘の復路の動きがはっきりしてきた。記録によるとどうも、僕が通ってきたクジュガン峠を超えるカラコルムハイウェイを通過していない。アフガニスタンのカブールから現在の地図でいうとアフガニスタン国内北東部のワハーン回廊を通過し中国国境ワフジール峠を超えて、タシュクルガンに入ってきている。  博物館の資料では、「入帕米尔高原。自揭盘陀国(今新疆塔什库尔干县 往东,途中遇盗幸脱险。复冒寒履险,约于年底辺 阗(今新疆和田县) ”パミール高原に入る。 ジエパントゥ王国(新疆ウイグル自治区タクシュクルガン県)から東に向かっていた玄奘は、幸運にも強盗から幸運にも逃れることができたが、再び危険を冒し、年末にはホータン(現在の新疆ウイグル自治区ホータン県)に辿り着いた」と記録されている。

玄奘三蔵(石頭城博物館)

 ▼タジク人  

タジク人女性、夜になると広場に集まる

 中国入国のイミグレーション・カスタムでは、漢人職員の対応に中国らしさと嫌な思いを感じたが、僕はこの町の雰囲気が気に入った。正式にはタクシュクルガン・タジク自治県という。街路樹がゆったりとし、人口約3万人の標高3000mの小さな町。そのうち80%がタジク人だ。ここで出会ったタジク人たちの顔の表情に社交性を感じたからだ。トルコ系のウイグル人とも違い、イラン系民族の顔つきをしている。どちらかといえば眉が濃い。体型的にも細めで身長が高い。朝早くからおばちゃんが道路の清掃をしているが、スタイルが良い。ポプラ並木の町にタジク族の女性たちが歩いている姿に出会うと、ロシア、東欧にいるのではないかと錯覚する。ほとんどがイスラム教。隣のタジキスタン共和国スンニ派と違い、ここはイスマーイール派に属すると言われたのでパキスタンフンザと同じ。戒律はそれほど厳しくない。町のどこでもビールが手に入る。さらに中国だからかもしれないが、女性が町の中で働いている。また、言語はパミール語系のサリコル語やワヒ語を用いるそうだが、街の中では漢語を話し、その光景がなんか不思議に思えた。タジクの人々は伝統的にタリム盆地西部の都市やオアシス集落を拠点としてきた。中華人民共和国が成立すると、「55の少数民族」の一つとして「タジク族(塔吉克族)」として独立したひとつの「少数民族」としての地位を獲得した。  

 滞在中に、食堂や商店を訪れたが、経営者は漢人、使用人がタジク人というパターンだった。僕が昼食に入った久しぶりのラーメン屋さん。亭主の漢語の指示をうけてテーブルに丼を運んできたのは、タジク人のかっこいい青年だった。

ラーメン屋の漢人亭主とタジク人従業員

 夜、町の広場に行ってみると、音楽とともにたくさんの人が集まっている。北京時間夜9時といってもまだ明るい。観光客相手に民族音楽のパフォーマンスかと思ったが、どうも様子が違う。周りを囲っている人たちもタジク人なのだ。そして曲が変わるたびに観客が踊り人になっていく。老若男女すべての世代が参加している。夕方から天気が良ければ、日本で言えば盆踊り会場となるようだ。皆笑顔で自由に楽しみながら舞っている。生きている文化を見せてもらった。ただ残念なのは、周囲に、警察の車が停車、監視しているのが気になった。

夜になると広場で踊っているタジク人

2023 古稀のバックパッカー⑱ 中国入国、税関で有害書類見つかる

タシュクルガン(塔什庫爾干)、新疆ウイグル自治区

 この町は、パキスタンだけでなく、アフガニスタンタジキスタンとも接している。そのためか、中国入国管理事務所は中パ国境上にはなく120キロ離れた市街に大きな建物を構えている。ここで初めて中国入国となる。朝パキスタンタンを出国し200キロ走り、夜9時にバスはタシュクルガンの事務所に到着した。入管はパスしたが、税関(カスタム)で僕は足止めという事態となった。

 係官が僕の荷物から書類を引き出し、パスポートと共に持っていた。詳細を説明しない。英語も喋らない。なんのことかわからないままに約1時間待たされた。周りはもう暗くなっている。困った事になった。まだ今日の宿泊先も決めてない。朝から食事もしていない。ビールも飲んでない。早くしろよ。

 待ってる間、頭を過ぎったのは、中国のビザ申請に偽りがあったためだろうか。僕はタイから中国雲南省昆明に入国すると申請していた。そのほうが入国の交通手段や宿泊先を書類上で記述しやすかった。ところが実際は、中国政府が一番気にしている新疆ウイグル自治区から中国入りした。それがバレたのかもしれない。といっても、熟考するとすでに入国スタンプはパスポートに押されているからノープロブレム。やはりわからない。時計は午後10時を指し、もう1時間座って待っている。

 係官が別室へと呼びに来た。上司と思われる職員が待っていた。「あなたが持ち込んだ書類に問題があります。」と英語で喋った。僕は「心当たりがない」と。ポルノ写真を持ち歩いているわけでもない。まして書籍は重くて持ち歩かない。日本人が良く持っている「〇〇の歩き方」やガイドブックなどもない。

 上司職員は僕が付帯していたA4版印刷物を机に広げた。タビの通過地点をグーグルマップに落とし、印刷コピーにしたものだった。タビで出会った人にこれを見せると、スゴロクのようになっており、どこからスタートしてどこに行くのかを現地で出会った人に僕のタビを説明しやすかった。スマホにも元データはあるが、電波が入らない時に簡単に取り出せる。

 彼らが問題にしているのは、この書類のようだ。ポカンとし、まだ理解できてないと見た上司職員は僕を机に座らせ、解説をし始めた。「あなたは、中国の法律にそぐわないものを持ち込もうとしている。それがこの地図だ。

没収された地図(有害書類)

彼の説明の要点は、

1.グーグルマップの地図は、台湾、南沙諸島を中国の領土ではないとしている。

2.インド、カシミールに関しても中国の領土と一致しない。

 説明を聞きながら、「問題はそこかい」と気付く。この紙切れごときにそんなに意味合いはない。所詮、ただのコピー印刷。元データはスマホの中にあるだろ。だからこんな処置したっていつでも複製できる。

 が、「待てよ」と僕の頭がひらめいた。多くの海外のビジネス関係者が地図問題を起こしているニュースを思い出した。中国政府は国内で活動する海外資本が、雑誌、パンフレットで使用している中国地図が間違っていると処分している。

 中国政府は「外国が紙上で中国の領土を分裂させている」とさえ思っている。その代表が台湾だ。だから外国作成の地図に、ある地域や島が「中国の固有の領土」として描かれているか否かをチェックしていたのだ。どうも、単なる嫌がらせではなさそうだ。

 僕にとってはただの紙切れが、「この国にとっては有害である」ようだ。相手のメンツもあるのだろう。余り意見を言っても時間の無駄。結論は、A4の2枚を没収。様式にそった書類が眼の前に置かれた。そして没収同意書にサインを求められた。昔で言えば有害図書焚書」だ。

 中国政府は領土問題を気にしている。共産党の上部の人たちの考え方だけかもしれないが。この100年に失った領土の復権というか恨みは強い。国民の目をそこへ向けさせ、内政問題を回避し、覇権国家を目指すように僕からは見える。

 ニュースなどで知っていたが、まさか自分にも火の粉が飛んでくるとは思わなかった。プリンターで印刷しただけの紙。僕のサイン入りの書類とともに上部の組織に送られるだろう。辺境の税関事務所の成果として。

 それにしても北京の意向がこの辺境の地まで徹底している。新疆ウイグル自治区だからか、それとも以前に比べて監視社会の徹底がすすみすべて記録されるからか。いずれにしても、国境を挟んでパキスタンイスラム社会と中国共産党社会には明らかに違いがある。目に見えるモノだけでなく、行政の対応、対人コミュニケーション、写真撮影にもう少し注意を払うべき事を自分に言い聞かせた。なにがトラブルの原因になるかわからない。人の動き、仕草をよく見ること。

 

 結局、僕が取調室から放免されたのは午後11時を過ぎていた。外は、真っ暗。これから宿を探さないと行けない。どこに宿があるのかもはっきりしない。はやくしないとカボチャの馬車になる。  

 しかし歳は取ったが、目標が単純ではっきりした時の動きは我ながら強い。行動の質より速さを重視できる。子供の時から得意だった。税関の門番に、タクシーが拾える場所を教えてもらい、中心街の近くへ。日本では鉄道駅前だが、ここでは「バスの発着場」に行く。そこは遠くからの乗客にあわせて深夜も営業する。そして安い宿があるというのが通説だ。

 バス発着場近くをよく見たらタビで一緒だったパキスタン人がいる。イスラム料理屋がある。パキスタン人のたまり場だろう。斜め前に安宿があったので、確保。早速シャワーを浴び、ビールが飲める食堂に行く。

真夜中に見つけたタシュクルガンでの賓館

 もう夜12時になるので閉店になるかもしれないと急いだが、食堂の壁時計を見ると9時を指している。中国公式時間とは北京時間で夜12時だがここでは午後9時。新疆に住む人達は日常的には新疆時間を使っている。パキスタン時間と同じだ。

食堂が閉まるまでまだ余裕あるじゃんと思い、他の人がテーブルで食べていた名前はわからない大盛り肉ライスを指差し、Vサインを出しながら「啤酒(ビール)」と注文した。食堂のおっちゃんがタバコを吸っていた。僕が物欲しそうに見ていると吸うかとサインを出す。今日一日の出来事と長い時間の緊張感が一気に切れ、ユックリした時間が流れ始めた。貰ったタバコは漢人のおじさんのライターの火に近づいていった。

 昨年からずっと禁煙していたが、まあいいか。言葉もわからないおじさんは僕の気持ちを察してくれていた。謝謝。

 

 

2023 古稀のバックパッカー⑰ カラコルムハイウェイでの中パ国境超え

パキスタンからの出国準備

 フンザからパキスタン側最後の町、スストに到着した。その足で、明朝出発する中国・タシュクルガン行きの国際バスのチケットを購入する。一日一便しかないから取れなければ明後日になる。幸いにも確保できた。スストにはパキスタン側のイミグレーションがあるのみで、町と言っても100メートルも歩けば家並みはない。中国からの物流を扱う事務所や中国側に向けて行く人のための店と食堂がある。商店は国境にあるためか空港の免税店のような品揃えでタバコやドライフルーツなどの地元の土産物が全面に出ている。そして冬物の衣類も扱っている。残念ながら酒は売ってなかった。近くの安ゲストハウスに宿を取り、出国の準備をする。残ったパキスタン・ルピーの換金、中国側でのSIMカード、高山病予防の投薬などやることはある。

 このタビを計画した時、年齢的に大丈夫だろうかと心配したのが、高山病だった。富士山登頂やアマゾン川からボリビアのラパス空港に到着したときに経験しているから用心に越したことはない。富士山は頭痛だけだったが、ボリビアの時は歩くことさえできなかった。今回も4700m近くになる。乗り合いバスなので途中で降りるわけにもいかないし、酸素ボンベを用意しているかわからない。出発前に友人に頼んでバンコクで薬「ダイアモックス」を購入しておいた。 

★世界一高所を通る「カラコルム・ハイウェイ

 中国のウイグル自治区カシュガルからパキスタンのアポッターバード(オサマビンラデンが暗殺された場所)までを結ぶ全長約1,300kmの世界で最も高い場所を通る道路だ。ハイウェイというが、日本の高速道路を想像するととんでもないことになる。急な崖っぷちからの転落や上からの落石事故もよくあるという。完成まで20年間。地滑りや泥流によりしばしばルートが断絶、今も修復を行っている。パキスタンと中国政府が建設したこの道路でパキスタン人労働者810人、中国人労働者200人の命を奪った。おそらく、世界でも危険な道路の一つかもしれない。

ハイウェイといってもこんな感じ。落石は頻繁にあるとか。

 土砂崩れが頻発するハイウェイでは地形まで変化し、2010 年には深刻な土砂崩れで付近の川が数か月も塞がれて、新しい湖ができた。

パキスタン出国終了

 朝九時にバス事務所に行くと、200m先の税関、出入国事務所に歩いていけと指示される。そこには、これから中国に向かう自家用車、ワゴン車、バスが並んでいた。しかし、僕たちの順番がなかなか来ない。一台ごとの単位でまず税関検査。僕らの前にイスラマバードから来た大型バスがいた。夏休みを終えて、中国に留学している学生たちで一杯。それが終わるまでは、税関の中にも入れてもらえず、外で待つ。1時間以上待っただろうか。やっと税関事務所に入れる。4人の職員が一人一人、すべてのカバンをひっくり返し検査する。僕の前のパキスタンのおじさんは絨毯を持っていたが、地面に広げ係官が四隅まで手のひらを滑らしながら確認した。そして、OKが出たカバンは、床の上に置かれ、僕たちは周囲の椅子に座らされる。麻薬犬の登場。一列に並んだカバンを嗅ぎ分けていく。僕たちのバスには中国で働くパキスタン労働者、宝石や民芸品を中国側で販売する商人、そしてパキスタンアフガニスタン旅行をした中国人の若者が乗っていたが、幸いにも全員無罪放免になった。しかし、これで終わったわけではない。隣の建物のイミグレで出国スタンプを貰わなけれならない。担当官が隣と話しながらやっている。その内停電。コンピューターが機能しない。困ったものだ。結局バスが出発したのは12時前だった。

パキスタン出国事務所

 パキスタンから陸路出国したものの、中国入国スタンプはタクシュクルガンで押されるという。その距離は200km先。陸路による国境移動でこんなに離れたのは初めてだったので不安が募る。もし中国側に入国拒否されたら、どうなるのだろう。移動の間、僕はどの国にも滞在してない。バスから出たら不法滞在。トイレ休憩や食事はどうなるのだろう。そう思っているうちにお腹が空いてきた。

 幸いにも、パキスタン側で一回ストップした。民家はないが、国立公園事務所があり、ここで用を足す。しかしこの事務所でストップしたのは国立公園を通るためその通過料兼管理料の支払いだった。持っているパスポートによって料金が違う。パキスタン人は1,000ルピー(500円)、外国人の僕は20ドル。だけど中国人は無料だった。カラコルムハイウェイ建設を中国が援助しているのはわかるが、パキスタンの領土で、自国民も払わなければならない自然保全のお金なのに中国人が無料とは??。中国とパキスタンの力関係を垣間見たような気がした。「一帯一路」の象徴とも言えるカラコルムハイウェイ。所詮、中国側に取って優位なものであることは間違いないだろう。

 パキスタン側から国境を超えるためには九十九折の坂道をローギアでバスは一気に登っていく。ヤクの群を横目に見ながら、海抜4,693メートルの峠が待ち受けている。国境に到着したのは午後1時40分。

★ 国境

 インド大陸ユーラシア大陸がぶつかった地点。南のパキスタン側の急峻な地形に比べ、中国側はなだらかなスロープに感じる。パミール高原だ。

中国側はU字谷のようになだらかになる


 
中国側が建設した大きな門をくぐる。世界一高い道路国境と周りの景観を写真に収めたいが、バスが止まることはない。窓を開けて写真を取ろうとすると、銃を構えた中国人民武装部隊の辺防部隊が大声で「窓を開けるな」とジェスチャーする。他の乗客はわかっているらしく誰も開けてなかった。ピリピリした感じが伝わる。ここで時計の時間を合わせる。中国は3時間進んでいるので4時40分(北京時間)。

中パ国境ゲート(写真は削除されずに残った1枚)

 国境から数キロいったところに大きな建物が現れる。「紅其拉甫(クンジュガンラボ)総合検査所」と書いてある。いわゆるカスタム(税関)だ。ここでも、パキスタン側の税関にいた大型バスが前に居た。順番が来てバスを降り、荷物検査を受ける。僕の担当は少し日本語ができた。荷物よりはスマホの写真を一枚一枚見る。国境の中国側で写した写真は削除される。国境ゲートの写真が一枚あったが、「これはパキスタン側」から撮影したと言ったらOKと言われる。乗客のうち一人の商人と思われるおじさんが別室に連れて行かれる。30−40分ぐらいかけてやっと開放され、バスはこれから中国国内を走る。左側通行から右側通行へ。高度はあるが、結局、高山病のような症状はなかった。薬のせいもあるかもしれないが、徐々に高度を上げ、国境で休むことなく高度を下げたことが大きな理由だろう。

第一回目の税関検査

★ 中国イミグレーション到着

 クンジュガンラボまで120km。中国側の農村、なだらかな道を走っているうちにウトウトした。午後9時前にバスはクンジュガンラボ市内にある中国側イミグレーションに到着した。途中、食事をする場所はなく、フンザでお土産に買ったアプリコットのドライフルーツを食べながら移動したが、まだ空腹だ。そして早くビールが飲みたい。宿泊先も探さなければならない。

 入国スタンプを押してもらい、本格的な中国入り。しかしその後、もう一度荷物検査があった。国境での一回目の検査と同じやり方だ。前回より厳しいのか、前に並んだ同乗者の何人かが別室に呼ばれる。「まあ、麻薬も持ってないし、荷物も少ないからすぐ済むだろう」と思っていたが、まず最初に、食べかけのアプリコットを捨てられた。そして、僕が持っていた書類を一枚一枚見ながら、係官が「待ってろ」といって、書類を別室に持っていった。

 それからが大変なことになった。担当係は英語で説明しない。僕はなんのことかわからないままに約1時間待たされ、別室行きとなった。宿探しやビールどころではない。先が思いやられる。

 この続きは次回へ。。。。

 

2023 古稀のバックパッカー⑯ 桃源郷フンザ

 玄奘が帰路に通過したフンザは7,000m級の山々に囲まれた谷にあった。ここから先は中国国境のクンジュガンラボ峠(4693m)まで渓谷は細くなり、落石の危険性も多く、難関な道であったことは確かだ。おそらく玄奘は、唐に向けて早く帰国したいと、最短距離のこのコースを選んだのかもしれない。。当時、どのような人々が暮らしていたのか詳細は分からないが、雄大な景色と心地よい風に玄奘も一休みした姿を想像する。。

Karimabadがフンザ観光中心地。Khunjerabが中パ国境

 ギルギット(Gilgit)からのバスは中心地アーリアバードに昼過ぎに到着した。大通りに沿ってバックを背負って歩く。太陽光線はきついが、谷を吹き抜ける風で快適だ。とはいえ、予約した見晴らしの良いゲストハウスに向かう横道に入ると、かなりの登り坂になる。V字谷の等高線上を歩くのは問題ないが、90度曲がると急な坂になる地形。f:id:toyotaid:20231226123223j:image
 フンザ中心部は標高2590m。パキスタン有数の風光明媚な観光地として多くの外国人が訪れる。アプリコット(杏)の花が一面に咲く春が最高の観光シーズンらしい。冬になると雪景色、国内観光客が南部の都市から訪れる。「最後の桃源郷」と言われた。日本では芥川賞作家、宮本輝の小説「草原の椅子」がドラマ化され、きれいな映像を見せてくれている。また「風の谷のナウシカ」の原作モデル景観になったのではないかと、コロナ以前は多くの日本人観光客が訪れていたそうだ。


 少し息を切らしながらゲストハウスに到着。部屋の窓を開けると、渓谷とラカポシ山(7788m)が一面に広がっていた。ここなら一週間ぐらい予約したほうが良かったかもと少し後悔。


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フンザの女性たち

 滞在二日目の朝からフンザの観光中心地カリマバードへ山道をハイキング。

 アプリコット(杏)やリンゴの果樹園で農作業や放牧をする女性達に出会い、写真にも応じてくれる。パキスタンに入ってイスラム教の女性が農作業姿を見るのは初めて。ここはイスラム教の中でもイスマイリ派が多いと聞いた。スンニ派に比べて柔軟で戒律は厳しくない宗派と言われているからだろうか、顔を隠していない。カリマバード近くでは女性グループが郷土のフンザ料理店を切り盛りしていた。

草取りをするおばちゃん

 

牛を引いて歩く若い女

 

フンザの食事、果物

 インドからパキスタンでの定番はナンやチャパティ、豆カレー、ミルクティー。美味しいけど続くと飽きる。フンザに入ってダウド(カレー味うどんスープ)チャプシュロ(肉野菜入りパイ)など郷土料理が待ってくれていた。日本人の僕に取ってはとても口に合う。特に麺類は8月でありながら夕方になると少し温度が低くなり、身体を温めてくれ毎晩お世話になる。

 

ダウド(うどん)

チャプシュロ(肉野菜いりパイ)


果樹類は種類も多く、アプリコットを始めクルミ、桑の実、ブドウ、桃、リンゴ、梨、ザクロ、アーモンド、サクランボが季節ごとに実をつけ、ドライフルーツにもなっている。桃源郷と言われる所以だ。チーズもある。僕はご相伴になれなかったが自家用ワインもあるそうだ。

 

果物の収穫時期

今シーズン最後のアプリコットをもらった。


★長寿の村

フンザは長寿の人が多いことでも有名だ。3日間の滞在では確かでは無いが、僕が見た関連しそうな点を書くと、、、、

・高齢者が坂道を歩いている姿をよく見る。そういう地形なのでしかたないか。

・年間を通してたくさんの地元果物が手に入る。

ハーブティーをよく飲む。僕もここの人が日常飲むトゥウーモー(wild thyme)を村人に飲ませてもらった。

・水が豊富。至る所で雪解け水が流れ、彼らの命の源と言われている。見た目は灰色っぽい汚れているが、ろ過して飲用している。恐らくミネラル分があると思う。

水路を流れている水は灰色っぽい

5.午後からは谷に沿って強めの風が吹き、涼しい。農作業もしやすい。

6.パキスタンの他の街と違って時間がゆっくり流れ、人々の顔がリラックスしているように感じる。

こんな条件が長寿の村を作り出しているような気はする。


 冬にはここから中国に向かうカラコルムハイウエイは雪害をうけ、10月から翌年5月までは国境は、封鎖される。一週間ぐらい休みたかったが、日曜日は国境超えのバスが出ないので日程調整も必要。そして、何と言っても中国に入って早くビールで喉を潤したいという欲望が強かった。

 三日目の朝、パキスタン側のイミグレーションがある国境の街、ススト行きに乗合ワゴンの出発を待つ間、フンザの野菜の種を買い、靴を磨いてもらい、髪と髭を整えてもらった。明日はパキスタン最後の日なる。

フンザルッコラと菜の花の種ゲット

 

散髪屋

パキスタンを歩いた靴もきれいに

2023 古稀のバックパッカー⑮ カルガー磨崖仏

ギルギットは、今はイスラム社会だが、6世紀、玄奘が訪れた頃は仏教の中心地であったことは確かだろう。

 その証拠を確かめるためにカルガー磨崖仏へ足を伸ばす。距離は約6キロ。相変わらず一般車とタクシーの区別がつかないので、大きな通りの三叉路に立っていた警察官に、「バイクタクシーを捕まえて」とお願いする。ダメ元だったが、彼は無線機を使って何やら喋っている。5分ほどしてバイクが来た。地図を見せながら、交渉するが海外からの観光客とみてか、法外な値段を提示する。交渉が長引くうちに徐々に人が集まる。呼んでくれた警察官も来る。他のバイクタクシーも寄ってくる。そんな中で英語ができる観客の一人が、「あのバイクは半額で行くと言っているよ」と指をさす。僕は最初のバイクの運転手と交渉を諦め、次のバイク野郎に乗り換える。出発するまでに15分はかかったかな。この世界では、どうも時間がない方が負けになるような気がする。需要と供給は一対一交渉より多数を巻き込んだマルチの方が周りの観客のヤジで地元の適正な価格になるようだ。

 玄奘が書いた「大唐西域記」(水谷真成訳)によると、ギルギットは当時、鉢露羅(パローラ)の名で紹介されている。「鉢露羅国は周囲四千余里、大雪山の間にあって東西は長く、南北は短い。‥‥‥伽藍は数百ケ所、僧徒は数千人いる」。東西に長くというのがおそらく昨日、僕がシャンドゥールからギルギット川に沿って降りてきた道だろう。カルガー磨崖仏は地上から30メートルの高さにありにあり、仏は4mぐらい岩をくり抜いて作られている。

カルガー磨崖仏

 正立像。少し丸い穏やかな顔と身体つき、耳たぶが大きい。右手のひらを見せ、左手も手のひらを見せ垂らしている。施無畏印与願印と言われ、「恐れることはありません。願いを受け止めます」という意味を持ち、遠来の客を迎えるようにギルギット川の上流を見渡している。作られたのは7世紀、復路にここを通った玄奘はこの磨崖仏を見ただろうか。

 数百箇所あったと言われる伽藍(がらん)とは、僧侶が集まり修行する場所の意味であり、寺院または寺院を表す。今回の旅でその遺跡らしきところを探し出すことはできなかった。それにしても磨崖仏はイスラム社会となって長年、壊されずに残ったものだ。

仏はギルギット川に沿って遠来の旅人を見つめる

 この州はギルギット・バルティスタン州と呼ばれているが、実は、パキスタン憲法ではパキスタンの一部として扱っておらず、法的には自治政府ではない。ここにカシミール問題が出てくる。

 カミール問題の発端は1940年代にまで遡る。当時、ジャム・カシミール州は藩王国の一つであったが、分割計画と1947年のインド独立法によって、インドまたはパキスタンへの帰属を自由に決めることができるようになった。ジャム・カシミールの住民のほとんどはイスラム教徒であるが、藩王自身はヒンズー教であることから、インドへの帰属を決めた文書に署名した。しかしその後、この地域はパキスタンが実効支配するようになり、時々紛争がある。3年前の2021年にパキスタンのイムラン・カーン首相が地域から準州への格上げを表明したが、憲法改正を要する。地域議会は準州昇格の支持を表明したが、カーン首相の退陣により、憲法改正プロセスはストップしたままだ。

 

 やはり紛争地域なので、僕もなにかあった時のために予備知識を入れていたが、実際にギルギットを訪ねるとそれほど緊張感は感じなかった。ただ、ゲストハウスのオーナーと話していて、「昔は日本人旅行客がたくさん来てくれたが、コロナも含めて最近はほとんど見なくなった」と嘆いていた。理由は僕も分からないが、アフターコロナ以降、円安経済や政治不安定となり、グループツアーの日本人の姿は一度も合わなかった。時代は変わり始めているのだろう。

ギルギット。州都だけあって市場にはたくさんの果物、野菜が並ぶ

 この町に2泊3日滞在し、次はフンザに向かう。「風の谷のナウシカ」の舞台ではないかと言われている。バスターミナルに行くと、乗り合いワゴン車が待っていた。乗客が一杯になったら出発するいつもの交通手段。ほとんどの人がこの車で移動するが、あえて、僕はイスラマバードからフンザに向かう大型バスを待った。ここで降りる客がいるはずだから、空いた席に座れたら良い。チトラル以降、ジープの長旅で膝に負担を掛けたくなかった。バスならゆっくり足を伸ばせると考えたのが正解だった。バスステーションで1時間ぐらい待ったら大型バスが到着した。運賃はワゴン車より高い。支払いは運転手に直接払い、OKをもらった。さてこのお金はバス会社それとも彼の懐に? フンザまで100キロ程度。一時間半のタビは快適だった。

久しぶりに大型バスに乗ってフンザへ向かう