toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2023 古稀のバックパッカー ③シク教

 朝一番で、アムリツァル行きの列車に乗る。ニューデリー滞在はわずか18時間。北西パンジャブ州のアムリツァルは国境沿いにある街。そしてパキスタンに入国予定。ニューデリー博物館でも行って、すこし歴史の勉強しようかと思ったが、田舎育ちの僕は、どうも都会に長くいると神経をすり減らし、息苦しさを感じるようだ。急ぐ必要はないのだが、スムーズに列車チケットが取れたので、行ける時には、コマを前に進めるとしよう。

車内はシク教徒がたくさんいる

 列車は12029号特急列車。7:20発13:35着。座席はCC(AC Chair Car)横2列×3列。食事付き。前回のタビで夜行寝台Sleeperを選び、悲惨な目にあった経験を活かし、少々高額でもこの昼の便を選んだ。(詳しくはこのブログ、「インド・ミヤンマー辺境への一人旅⑦ On the Train」)

 水資源が豊かなパンジャブ州の小麦畑、とうもろこし畑。農村風景を見ながら約6時間の旅。今どきLCCは、日本ータイの5時間の飛行でも食事が出ないが、この列車では2回も食事が出る。アイスクリーム、お茶、ペットボトルまで付き、カレー定食だ。車両ごとにいる給仕がテキパキと席まで運んでくる。チケット購入時に、ベジタリアンかそうでないかの確認もされ、配膳する。約2000円の乗車賃にすべて含まれている。結局1時間以上の遅れはあったもの快適な時間を過ごした。

リュウム豊富。間違って、ライスが2つ。

 インド人と聞くと、僕は頭にターバンを巻いた人を想像する。小中高とテレビでプロレスが盛んだった時代に育だち、タイガージェットシンを思い出す。しかし、実際にインドに足を運ぶと、ヒンズー教社会でヒゲを伸ばしターバン姿のシク教徒は、思ったよりも多くない。アムリツァルはそのシク教の聖都で、総本山がある。

 第二次世界大戦終了後、1947年イギリス領インド帝国は、宗教によって、分割された。ヒンドゥー教徒地域のイスラム教徒はイスラム教徒地域へ、逆にイスラム教徒地域のヒンドゥー教徒ヒンドゥー教徒地域へ、それぞれ強制的な移動・流入による難民化を余儀なくされた。そして衝突と暴動、虐殺が発生、さらに報復の連鎖が各地に飛び火した。実は、この時、シク教徒も移動している。両国の対立はインドが世俗主義であるのに対し、パキスタンイスラム教を国教としているという違いがあった。パキスタン側のパンジャブ州にいたシク教徒は、世俗主義を取るインド側に移動した。本来は、パキスタンのラホールが中心でだった。アムリツァルの地理的位置がパキスタンに近いのも納得できる。

 さて「シク教」とは? 僕も詳しくないので、今回のタビを機会に少し事前勉強した。以下、ウキペディアより抜粋。

キリスト教イスラム教、ヒンドゥー教、仏教に次いで世界で5番目に信者の多い宗教で、約2400万人の信者がいる。印僑として欧米諸国や東南アジアで暮らすシク教徒も多い。少数だが、日本にもコミュニティが存在する。

シク教の教義は宗教家であるグル・ナーナクによる『グル・グラント・サーヒブ』のほかそのなかに含まれる『ジャブジー』『アーサー・ディー・ヴァール』などの詩歌によって伝えられており、敬虔な教徒は毎日これらを朗踊する。

神には色々な呼び名があり、それぞれの宗教によって表現のされ方の違いはあるが諸宗教の本質は一つであるとし、教義の上では他宗教を排除することはない。イスラム教の様なジハード(努力)も説いていない。但し、他宗教への批判を全くしないのではなく、ナーナクは、ヒンドゥーイスラム両教の形骸化、形式、儀式、慣行、苦行は批判をしている。その一方で、「聖典に帰れ」と主張しており、本来の教えに立ち帰るべきだとの信念を持っている。

人の一生を精神の超越への行程と考えるヒンドゥー教に対し、自分の事ばかり考える人間は5つの煩悩(傲慢、欲望、貪欲、憤怒、執着)に負けてしまうため、真のシク教徒は一生を常にグルに向け、神を真実の師(サット・グル)として仰ぐ。

 

 すこしわかりにくい説明だが、実際に訪れたアムリツァルで僕なりの大雑把な解釈をすれば、ヒンズー教イスラム教の両者の中間にあり寛容性ある宗教というイメージを受けた。

ニューデリーの喧騒から逃れ、アムリツァルの駅に到着。街の雰囲気は大きく違っていた。人々のしつこさが少ない。お客を奪い合うような強引さがない。早速、ホテルに荷物を起き、総本山のハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)に向かう。世界各地から来る巡礼者、観光客で門前町は人々で賑わっている。が、来訪者は静かに、ハリマンディルに向かって整然とぶつかりあうこともなく動いている。人の数は多いが、身の回りを警戒をする必要性を感じない。土産物を売る商店の呼び込みも少ない。ゴミも落ちてない。シク教をの教えを肌で感じた。

 それぞれの宗教の問題点を認識しながら、神の本質および存在を思い起こし、家庭生活に結びつけることを要求している。儀式、偶像崇拝、苦行、ヨーガ、カースト、出家、迷信を否定し、世俗の職業に就いてそれに真摯に励むことを重んじるとしている。そして重要な点は、他宗教を排除しないこと。

 ハリマンディル寺院は誰でも入ることができる。入る前、手を洗い、靴を預け、足を清める。ターバンあるいは頭にハンカチをかぶって髪の毛を隠さなければならない。参拝客には食事が振る舞われる。明らかにインド系ではない僕にも。チャパティーとカレー。おかわり自由。寺院での食事は菜食主義者に敬意を表して肉は供されない。食器を受け取り、床に座ると、食事が配膳される。階級、性別など無く、一緒に食事。譲りあいを忘れず、食べ残しをしない。そして、食事が終わるとそれぞれが片付ける。一日何万食となる食事は寄付で賄われ、調理、配膳はすべてボランティアで行われる。参拝客がその場で手伝ったりもしている。

 これまでインドでは見たこともない光景に遭遇する。教えを頭で理解することは出来なくても、シク教の目指すところはなんとなく体感できる。世俗の世界で真摯に生きろ、と。

僕もバンダナを巻く