toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2023 古稀のバックパッカー ⑨ペシャワール(その3)

 インドで誕生した仏教が中国、朝鮮そして日本へ北伝する上で、重要な場所としてガンダーラがある。その中心地がペシャワール。この地で仏像が作られ始めたことを確認することが、このタビの目的の一つでもある。ちなみに、玄奘三蔵も、インドに向かう往路でカイバル峠を超えてこのペシャワールを訪れている。

「苦行する釈迦像」ペシャワール博物館所蔵

なぜ仏像は作られ始めたか?

 偶像崇拝 

 住んでいるタイでは、当たり前のように毎日、穏やかな表情を持つ仏像を目にする。そして日本のお寺でも。中央アジア、東アジアを経て、6世紀頃に仏教伝来と時を同じくし、仏像も日本に渡ってきた。子供の頃、僕もお寺に行けば、わからないながらも「菩薩」「如来」など色々な名前がついている仏像に手を合わせてた。

 しかし、疑問を持ち始めたのは、インドネシアパレスチナで生活するようになってから。イスラム教は、徹底的に偶像崇拝を禁じている。理由は神が作った超自然的なものではなく、人間が作った物質的なものにすぎないからだ。

 そして、2019年にインドを旅して、ブッダ自身も偶像崇拝を禁じていたと知った。なぜなら人間は、目に見えるものに執着してしまう傾向があると解釈していたから。仏教の考え方では執着=煩悩であり、執着を捨てる道こそが悟りに近づくと考えていた。それ故、初期仏教では仏塔、法輪、仏足がシンボルとなり、ブッダを崇めるような仏像はなかった。

初期仏教からの変化

 ブッダが初めて教えを開いたインド・サルナートからこのガンダーラに伝わるまでに、5〜700年が経過している。2世紀ごろ話だ。教えは弟子たちによって、各地に拡がると共に徐々に変化してきた。苦行を通して悟りを開いたブッダが弟子たちに伝えた教えは、悟りを開くための道だった。方法論としては、今の上座部仏教(テラワーダ)に近いものだったと思う。出家し、修行を積む人のみが解脱できることに真髄がある。

 が、500年後ガンダーラに到達していた仏教は、大乗仏教(マハーヤーナ)に変化していた。誰でも、菩薩信仰をすれば仏になれるという考え方だ。教えは難しいサンスクリット文字でしたためた経典になっていた。文字を読めない人への布教は難しい。人々が仏教に帰依するために、シンボルとして仏像が作られ始めたと僕は想像する。ブッダの誕生や入滅などを描いた彫像も作られ、ブッダの生涯を視覚から伝えている。この地には、紀元前からギリシャで生まれたヘレニズム文化の影響を受けた彫像技術がすでに根付いていた。

釈迦の入滅 ペシャワール博物館収蔵

宗教と哲学

 「インド哲学」という単語がある、日本の大学でも仏教学ではなく、少し広い意味でインド哲学と名をつけている学科もある。特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは宗教と哲学の境目がほとんどないと聞いている。一方で僕を含めて日本人には「哲学」という単語は、かっこよく少し偉い人が語る言葉かもしれない。「宗教」と言うと、頭が凝り固まったすこし胡散臭い単語をイメージし、口にするには注意を要する。

日本社会にはそんな感覚があるので少し整理。

 一般的には、哲学と宗教の違いについては、僕も理解が不明瞭な点が多いので、参考のためにインターネットで検索してみた。その文章をお借りすると、

『哲学は、物事の根本や思考の枠組みなどを前提なく問い、究極的・全体的な真理を探究する態度であり、それを体系化した理論を意味する。 宗教は、人間を超える超越的な存在と関わって生きる態度(信仰)を持つことであり、またそのような信仰を共有する人々の集まりも意味する。』(思想や哲学や宗教の違いはなんですか? - Quoraより)

「初期仏教ではブッダの教えはある種の哲学だったかもしれない」と少々乱暴だが僕は思っている。これが多くの民衆の信仰を得るために宗教性を磨き、体系化していった。仏像は信仰心を高め、布教への道具と繋がった。布教の拡大により、宗教は統治への道具にもなる。ガンダーラでの仏像作成が進んだのは、国を治めるために必要であり、強いては、仏教が、民族を超えて世界宗教として拡大する役割の一部を担ったものだったのだろう。

クシャナ朝と仏像

 これを推し進めたのは、クシャナ朝(Kushan)と言われている。中央アジアから北インドにかけて、1〜3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝だ。

 特にクシャナ朝を最盛期にしたカニシカ王(Kanishka I)の存在が大きい。東はインドのサルナートから西はアフガニスタンペルシャ、北は現在のウズベキスタンあたりまでを領土とした一大帝国を築いた。遊牧民であり、馬を利用して移動していた。カニシカは一族郎党を引き連れ、夏はアフガニスタンの草原へ、冬はインドの平原へ移動した。地方の有力者を従属させ、「王の中の大王」として君臨したと言われる。そしてペシャワール(当時の地名はプルシャプラ)を首都とした。

クシャナカニシカ王の金貨(ウィキペディアより)

 彼は領土と権力の拡大の手法として、戦力だけでなく、仏教信仰を通じて民衆を引き入れた。武力政治と仏教が結びついたことにあると思う。そしてクシャナ朝、ガンダーラ仏教美術が開花した。

 それ以前の人々が信仰していたのは、紀元前6世紀からペルシャで起こったゾロアスター教拝火教)や様々な神を信ずる多神教であったようだ。仏教はおそらくこうした宗教より当時の民衆の心を捉えたのだろう。仏教を保護したカニシカ王クシャナ朝は急速に国が栄え、仏教伝播が進んだ。こうした関連性があるのだろうと思う。仏像は大きな役割を担った。

ゾロアスター教については僕も門外漢。詳細の説明はまだできない)

ペシャワール博物館 ビクトリアホール

ペシャワール博物館

 滞在三日目、博物館を訪れた。ガンダーラ美術に関してはラホールの博物館に負けない遺産を収蔵している。1907年に建設されたこの博物館は、インドの伝統的建築の要素を持つ「インド・サラセン様式」の建物、そして入り口から拡がるメインホールはヴィクトリア朝ゴシック建築。その名も「ビクトリアホール」がその貴賓の高さを示している。当時の大英帝国の技術の粋を集めたもので、38度を超える屋外の自然からは想像できない落ち着いた雰囲気を醸し出し、驚かされる。

 ガンダーラに関する収蔵物はここが一番多いらしい。ブッダの誕生や入滅などの生涯を描いた彫像をたくさん見ることができると、博物館で出会った中国人の若い考古学研究者が教えてくれた。土曜日の午前中に訪れたが、訪問客は少なかった。パキスタン人の家族連れが少々とおそらく、外国人はアジア人の彼と僕だけ。中国人の彼は、中国シルクロードの仏教遺跡を歩いた後、この博物館に到着したという。、僕と反対の経路を歩いている。そして中国国内での仏教遺跡について訪問経路などを詳しく教えてくれた。ペシャワール後はアフガニスタンのバーミアンに行くとのこと。「アフガン入国はできるのか」と聞いたら、中国人は簡単にビザが取れるとのことで驚いた。最近のタリバン政権と中国政府との関係を垣間見る会話だった。