toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅㉑最終回 Return to Chiangrai, THAILAND(Sorry,only Japanese)

f:id:toyotaid:20200313091502j:plain13 タイ帰国

 朝6時過ぎ,静寂な空気の中、国境の橋を渡り終えた。タイ側に戻った。そこにはこれからミャンマーに向かう団体がバスから降りてくる風景が待っていた。ほとんどが若い女性のようだった。大きな荷物を抱え、ミャンマー人だろう。洒落たキャリーバックやすこし肌の露出が目立つタイ人観光客ではない。労働期間を終えて、これから国に帰るのだろか。通常、路線バスは国境までは来ない。貸切夜行バスなので、おそらく大きな企業がチャーターし,大量労働者を移動させているのだろう。Soe君のように個人で仕事を探す者。そしてこのバスのように契約を結んで働く人たち。別の国境の街、タチレクでは朝7時頃、弁当をもっている沢山のミャンマーの若者を路上で見かける。国境越え日帰り労働者の彼らを数台の車がピックアップしていく。いろいろな労働のパターンがある。現実的な対応だ。水は小さな穴があればどこからでも漏れていく。いずれにしてもタイ経済の底辺はすでに周辺国で支えられている。 

 タイに到着するとこれまで気を張っていた自分が見えてくる。呼吸がしやすくなるのだ。昔はそうでもなかったが、社会がシステム化されたというか、行動パターンが想定内なので楽なのだろう。まあ僕自身、「マイペンライ(問題なし)」という意識がかなり染み付いていることもあるだろう。

 今回の旅はインド・ミャンマーの辺境部だったので、タイ社会が経済的に発展してことを改めて痛感した。相対比較でしかないが、タイ人の肥満度が高いこと。メソットの町でバスを待つ間、人々が明らかにふっくらしているのがわかる。30年前にタイで生活していた頃、一部の中国人家庭を除いて肥満の子供たちを見ることは、無かった。2年前から再び生活し始めた頃から少し気になっていたことでもある。もともと外食に頼る生活が多いタイ人たち。収入が多くなるにつれ、食生活が多様化してきている。食べることから始まる彼らの文化は、経済発展とともにさらに色鮮やかになったかもしれない。従来の麺類、ご飯類のストリートフードに加え、西洋型ファーストフード店、若者向け焼き肉食べ放題店、日本料理店、さらには、中国式辛串焼き屋台等がいつでもどこでもそしてどんな地方でも、気軽に口にすることができる。これが原因かな? いやいやそれだけではないだろう。健康意識を持っている一部の人を除き自転車や歩いている姿を地方で見ることはない。青年たちは免許証より先に自前のモーターバイクを持ち、学校に通ったり夜遊びをしている。数百メートルの距離でもバイクで移動し、ほとんど歩かない。消費エネルギーは少ないだろう。車やバイクを持ってない若者は彼女ができない。女性もほとんどがバイクに乗る。まさに 便利さがカッコよさであり、ステイタスだ。さらに経済活動が活発化し、時間のゆとりが少なく、ストレスを食欲で発散しているかもしれない。若い女性を誘うには美味しさよりトレンドで食べ放題のレストラン。大盛況だ。そして甘いものが好きだ。インドで聞いた話だ。「インド人には太っていることが富の象徴である考えている人が多い。お金があるから栄養のあるものを食べることができる」。タイもこの考えを持っている人が多く、気にしていないかもしれない。それにしても、統計的数値によって、「食生活からの経済発展」を見たことはあるが、このバスステーションで見た光景が、それを具現化したように思えた。僕が関わっているタイ山岳民族支援財団の話だ。30年前は教育の機会向上や貧困の支援がテーマだったが、今では心身の健康意識変化や民族の食文化の見直しへの取り組みがスタートし始めている。

 

 午前7時、予定通りメーサイ行きのバスはスタートした。ミャンマーの国境から同じミャンマーの国境を繋ぐバス。一日一本だけど、こんなバスがあるのも面白い。走行距離 560km。移動時間8時間。需要(デマンド)が有るのだろうか? お客がミャンマー人なら何となくわかる。タイを取り囲むミヤンマ国境線を円周上としたら、2点を直線で結ぶようなものだ。ミャンマー国内のみの通過でこの2点を移動したら大変な距離と時間がかかる。ただしパスポートが必要だけど。そういえば北海道から九州・沖縄に行くのに、時期によっては韓国経由で行くほうが安いと聞いたことあるな。

 残念ながらバス乗客はあきらかにタイ人だった。皆、途中で乗ったり降りたりしていた。僕の予想は大ハズレ。タチレク到着前の午後4時、バスはチェンライに到着した。まったく疲れを感じなかった。理由は、やはり道路舗装の違いだろう。幹線道路は、全て複数車線で高速道として整備されている。さらにバス車両もゆったりしている。身体がインド・ミャンマーの道路事情を覚えているから、そう感じるのだろう。僕らが持っている感覚や価値は、その場の相対的比較でしかないことを新ためて教えられた。やっぱり、自分の基準(かっこよく言えば哲学)を持たないとどんどん流されてしまうな。「吾唯足るを知る」。

 

旅のおわりに

 タイ・チェンライ到着。さっそく近くの温泉に浸かり、汗を流しながら振り返って見た。「この旅はなんだったのだろう」と。

 とても濃かった。「宗教」、「民族」、「戦争(インパール)」という3つの目的を意識的に抱えながらの旅だから当然と言えば当然かもしれない。年齢を重ねるにつれ、興味関心が高くなってきたテーマだけに、入り込むと抜け出せないような時もあった。

 旅の途中でも反芻した。目に映る現象、ミュニケーションで受ける人々の考え方、記録・情報資料による事実確認。ベットから天井を見上げたとき、交通機関での移動中。時間はたくさんあった。そして自分が65年間生きてきた経験と照らし合わせた。消化できるものもあれば、吐き出したものもある。それらを明確には整理できないが、自分にとっては、おおきな曲がり角になる旅であったことは確かだ。

 「民族」に関しては、これまで服装、言語、伝統慣習、生活様式などに興味を持っていたが少し興味が変化した自分に気づいてきた。ナガ族を始めとして辺境の地には多くの少数民族が特異な生活をしていた。彼らの名称から始まって、多彩な伝統文化に会うことができた。しかしその一方で民俗学者文化人類学者によって分類化され、細分化された枠に翻弄され、自分の頭の悪さと覚えられないことへの嫌気が差した。

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ひと時のくつろぎ。笑みがでる

 一方、近代化の中で異文化との遭遇、価値観の違いの中で、彼らにどのような将来が待っているのだろうかという点に興味はどんどん湧いてきた。農耕民族性が見えるタイ北部や中国雲南省で出会ってきた少数民族に比べ、狩猟民族性が高いと感じた彼らの行動パターン。人がグループとしての規模、力関係。とりわけ氏族、種族、部族から民族へ変化する中で、グローバル化する社会と出会う。そこに、渦巻く経済と政治の強い流れがある。高度経済成長後、停滞した日本社会での価値観や流れに沿って動くことへ疑問を持てなかった僕には、新鮮ささえ感じた。彼らが残している多様性が淘汰されるのではなく、貴重な資産として残されるために、何ができるのだろう。新世代はどのように動いていくのだろう。興味は尽きない。

 「宗教」については、これまで持っていた固定概念がすこし変化している自分を感じる。「法」として「文化」としての役割・重要性に気づいた。そして、残された時間をどのように過ごすかという命題へ入っていけると嬉しい。おそらく僕らは2500年前とほとんど変わって無いはずだし、現代文明はそろそろ変化する時期に差し掛かっているのではないかと思っている。まだまだ煩悩がチラつくが、心揺れないために、自分を磨く修行のガイドラインとして素直に受け入れたい。

 「戦争」を考えるインパール作戦地の訪問。「よくこんなところまで来たな」、「大変だったろうな」というイメージしか持っていなかった。しかし、旅の途中から、「なぜこんなところまで来たのだろう」という疑問に変わってきた。75年前の日本の歴史に触れ、僕も含めた日本人の特徴について考えさせられる。確かに食料・武器が補給されない無理な作戦が失敗の原因とされているが、当時の日本軍の考え方を知りたくなった。一度決めたら、変更ができない社会。上手くいかなくてもトップが決めたら、どこまでも無理をして進める。根拠のない精神論、根性論がまかり通る。「こだわり」、「完璧」、「我慢」が強い特徴もあっただろう。最後は破局まで突き進んだ。でも今の日本人もこれと大差ないと感じるのは自分だけだろうか。そんなことを一考するインパールだった。

 

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 2019年4月、タイ・チェンライの家から島根県の実家まで陸路・海路で動いた。6800キロ。そして11月12月にインド・ブッダガヤからタイ・チェンライの家まで陸路で繋いだ。3500キロ。合計で1万キロを超えた。来年はインドブッダガヤから西へどこまで繫げることができるだろう。一番重要なことは、旅は「人との出会い」に尽きると思う。広い世界で、非日常的な時空で出会った人々を通して、無意識に日常を過ごしてしまう自分の座標を再認識させられる。。(おわり)