toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2023 ウィズコロナの旅は続くよ

その① 二年半の中断

 昨年、2022年。1月に日本からタイへ帰国した時は、入国地のプーケットでまだ1週間のホテル滞在(隔離)を余儀なくされた。それから、状況は少しずつ変化していく。オミクロン株は高い感染力にもかかわらず、重症化率が低いという認識はタイでも拡がり、住民のコロナに対する怖さは、「インフルエンザ」ぐらいに低下しはじめた。村人達も、近隣の感染情報に一喜一憂することはほぼ無くなり、感染者への恐怖は見せなくなってきた。確かに皆が、公の場に出る時はマスク着用などに気をつけているが、お互い知っている間柄では「マスクなし」が普通となってきた。9月、手伝った友人の葬式では、弔問客の数は、コロナ以前と変わらず、葬儀も数日間にわたって繰り広げられ、食事をし、密接も当たり前の賑わいだった。その一年前、各地の葬式で陽性者が急激に増え、村によっては隔離され、移動制限が起きた状況に比べると考えられないぐらいの早さで普通に戻った。
 人と人、人と空間、人と働き方、様々な場面で暮らし方の質や形態が変化したが、9月末にタイ政府は、新型コロナ対策の非常事態宣言を二年半ぶりに解除。観光産業等を重視した経済再建に向け、ウィズコロナ社会がやっと動き始めた。

 10月下旬の日本帰国の際は、3回のワクチン接種証明のみで、日タイ間の出入国ほぼスムーズになった。しかし、世界を見回すと、まだ色々な思惑から扉を開けてない国がある。その代表格がゼロコロナを推進する中国だった。

(インド・ブッダガヤにて)

 高齢になって、南北はシベリアからインドネシア、東西は日本からイスラエルまでのユーラシア大陸に自分の足跡をつけたいという思いが徐々に具体化していた。そこには中国、インドがどっしり座っている。2018年にはタイの居住地からラオス、中国、韓国を通り日本の自宅までの道を陸海路で繋げた。19年末にはブッダガヤ(インド)から北上しナガランドを抜け、ミャンマーを横切り、陸路でタイの居住地までを踏査した。しかし、どうもアジアの歴史の大動脈を通過してないような感じがする。この違和感はなんだろう?歴史的な文明の流れや宗教の動きから少し外れた所を歩いているような気がしていた。そうだ、洋の東西をつなげるシルクロードや世界の屋根ヒマラヤに絡んでない。西安からウルムチまでは足を伸ばしたことはあるが新疆ウイグルの入口でしかない。チベットもまだだ。

 

 そんな中で、仏教北伝に眼が行き始めた。仏教は当初、ブッダそのものの偶像がなかった。東に向かい、ガンダーラギリシャペルシャの文明に出会い、仏像が作られていく。そして中央アジアを経て中国、日本へと伝わった。ヒマラヤを越えて、東アジアに繋がっていくルートに興味がわきはじめ具体的な計画作りに入る。

 計画では2020年はブッダガヤから東に向かい、パキスタンを通り中国、新疆ウイグル自治区カシュガル、そしてタクラマカン砂漠南路を通過して敦煌西安までを歩く予定だった。地図を開きながら、アフガニスタンや中国、インドの現在の地政学を参考にし、実行のためにはどんな障害があるのか思い描いた。政治状況変化によって、カブールは避けるとしても、行けるところまでは足を伸ばしたい。最低でも大乗仏教にまつわる歴史とそこに暮らす人々や地形をこの目で見ておきたい。次のタビのテーマが決まってきた。「足腰が弱る前に踏査したいな」という焦りもあった。


 そんな矢先にコロナはやってきた。2020年3月のラオス渡航を最後に、2度の日本帰国を除き、自由に動き回る海外旅行はストップさせられた。飛行機が飛ばない、ビザが出ない。厳密な検疫システムで旅どころではない。タイ国内、村からの移動さえ不自由になってきた。

 そしてこの2年半の遅延は、老齢化する自分の身体と心に違和感、閉塞感を感じさせるうになった。コロナによって、移動そのものが限定された。私だけではなく、すべての人がこの様になっているのだけど、なんか国家によって強制的に自由を奪われたようにさえ感じる時もあった。老後の「陸路で気楽なアジアを旅(タビ)」の計画が思うように進まなくなり、少しずつ身体の健康バランスが崩れ始めたことだった。

(中国ラオス国境・ボーテンにて)