toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

2023 古稀のバックパッカー㉒ カシュガルの街で感じた中国社会

 僕のタビは基本的に個人旅行。もちろんグループや団体で楽しく、美味しいものを食べる旅行も嫌いではない。が、線と線をつないで対象物となる観光地または有名店に行く(行った)のが目的となると、人々や生活に触れたりすることが少なく、時間にふりまわされ、時には退屈になる。

 ひとり気ままに歩くことは、時に自分の感性に触れることができる。異文化の中にマイノリティーとして身を置き、これまで自分が培った価値観や刷り込まれた社会システムへの気づきにつながる。新しく出会う社会ルールや人々の行動にどうも興味があるようだ。時には否定的になり、時には肯定的になり、自分が持っている社会への適応能力や意識の幅を確認できる。タビはすこしキツイこともあるが、自己判断し、生きている実感を肌でつかもうとしていることを納得できればこの年齢になっても楽しい。タビは人生の縮図のように思える。

管理社会

 こんなタビをインド・パキスタンでは楽しんできたが、国境を超え中国・新疆ウイグルに入ってから、バックパックを背負ったひとりタビにはすこし息苦しい気配を感じるようになる。タビは本人と対象者あるいは対象物の関係なのに、『第三者が割り込んでくる感覚がある』と言ったほうがわかりやすいかもしれない。何かしら目障りなのだ。建物に入るのにチェック、移動の度に身分証明、パスポートを常に手にしておく必要がある。僕一人が対象ではなく中国人たちもやっている。ウイグル人中央アジアの顔つきが違う人の方がもっと厳しいようにも感じる。これが社会ルールとなる。自由が効かないと思うのはこれが原因だろう。宿で出会った他省から旅行できた中国人(漢人)青年は、「新疆だからね」と言う。僕も初めての中国ではない。コロナ前には雲南省から遼寧省まで縦断したが、以前はもっと楽だったような気がする。

 この社会ルールが、中国共産党によってここ新疆ウイグル自治区を維持する基本的な姿勢だろう。管理、監視体制。共産党を通して漢人が民族、宗教が違うウイグル人たちを支配する手段に見える。『我々の法や制度を教えてやっている』という匂いが漂う。それに対する抵抗や反対を起こさせない予防措置が強く働いている。

路上での検問

 こんな光景を駅で見た。列車のチケットを購入するために長い列ができていた。そうすると横からウイグル人と思われるおじいさんがカウンター前に割り込んでチケットを買おうとする。チケットカウンターの漢族の女性駅員は列に並んだ人へのチケット発券にコンピューターを打ち込んでおり、取り合わない。しかし、何度も何度もおじいさんは話しかける。何を言っているか分からないが、引き下がらない。すると椅子から立ち上がり、おじいさんに向かって大声で怒鳴り始めた。ウイグル人を指さして、『何度も言ってるでしょ。皆並んでるの。順番を守ってよ』。中国語は解らないが、僕にはそう聞こえた。そして『これだからウイグル人は困るのよ』と思っている様子が顔にありありと出る。

 列車の中ではウイグル族のおばちゃん達がお菓子を6人席テーブルの上に広げて、ぺちゃくちゃ食べながらゴミを散らかしている。通りかかった車掌が来て注意した。ウイグルのおばちゃんは「ごめんね」ではなく、北京語で「謝謝」と言って気まずそうに片付けた。「中国人のあんたらだって、海外に出たら色々なトラブルを起こしているだろう」と思いながら複雑な心境になる。確かに、日本人感覚の僕から見ても迷惑だなと感じるが、インド・パキスタンを歩いてきた僕はそんなにきつく言わなくていいと思う。街を歩くと、確実にわかることはウイグル人漢人の顔つきの違いが一目瞭然だ。同じように暮らしているが、職業、住居エリア、社会行動にも違いを感じる。

駅でのチケット購入。ウイグル人の割り込みあり。

 単純には言えないがマスコミ等から流れるウイグル問題を見聞きしているので、つい「弱いウイグル人、強い漢人」という構造となり、弱者の肩を持ってしまうが、これを前提にものを決めつけないほうが良いだろう。漢人ウイグル人も皆、自分たちが中心という意識は強い。今の共産党政権は「管理しないと何をしでかすか分からない」が前提だろう。国が大きくなればなるほど、監視を徹底的にしようとする。経済発展や情報機器の発展はそれを助ける。そんな状況に遭遇することが多いのがどうも僕のタビを憂鬱にさせているのだろう。

タビの言語

 次に言語の問題がやはりどうもタビの障害となっている。幸い、日本人の僕には「漢字」という武器があるが、手間がかかるし僕の簡体字能力もおぼつかない。これまで歩いたインド・パキスタンに比べるとここでのコミュニケーションはスムーズにいかない。街に出るとすこし苦労する。ウイグルの人から声を掛けられることは少ないので、こちらから英語で話しかけるがどうも引き気味だ。原因は単に僕がウイグル語も中国語も使えないことにあるのだが、簡単な英語でのコミュニケーションがなかなかできない。それと感じるのは、言語の問題より見ず知らずの人と話したくないような傾向を見ることだ。ましてや彼らからすれば僕は漢人に見える。

 農村部よりは都市部の人、一般的な労働者よりはホワイトカラー、年配の方より若者に英語が通じる印象があるので、学生や若い人を狙って声をかける。宿泊にユースホステル(青年旅者)利用するのはそんな理由もある。大きな街にしかまだないが、若いスタッフの何人かは英語で対応してくれる。僕の印象では、大学生と話したが、思ったより英語ができないという感じがした。彼らは学校でも英語を習っているそうだが、日本と同じように日常社会の中で使うことが少ないのが理由だろう。

宿泊したカシュガルの青年旅舎。若いスタッフは英語を話す。

 日本でも最近の若者は外来語を使うことが多い。日本語はカタカナで表記するので見分けやすい。(といっても、最近はカタカナ語が氾濫して、意味不明のものもあるが…)

英語から中国語になった単語がある。若い人たちとはそういう言葉を使えば、ある程度理解し合えるのではないかと考えた。教えてもらうと、どうも違う。マクドナルドは麦当劳 mài dāng láo(マイダンラオと聞こえる)、スターバックスコーヒーは星巴克 xīng bā kè(シンバークと聞こえる)中国語は英語の音を意識しながらも意味を重視した翻訳をしているらしい。「音訳」といっても首をかしげたくなることも少なくない。だから日常使っている英語由来の単語との関連性があまり持ちにくいのかもしれない。

 翻訳といえば玄奘が持ち帰った仏教経典。サンスクリット語で書かれた仏典を彼はどのように翻訳したのだろう。「般若心経」をはじめ、彼が翻訳しているが、中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前の鳩魔羅什らの漢訳仏典を旧訳( くやく )、それ以後の漢訳仏典を新訳( しんやく )と呼ぶと言われている。それらは音訳より言葉の意味を重視したものとなっている。仏事では僕ら日本人はサンスクリットから漢語に訳された漢文で読むがその意味はほとんど理解できず、現代和訳に頼るしかない。やはり難しい。

店の看板見ながら夕食を決める

 漢字世界の影響を受けた日本語がどの程度役立つかは、疑問だが少なくともタビの食事にはアラビア文字をベースにした中央アジアの言語より役立っている。炒:炒める、蒸:蒸す、炸:揚げる、煎:煎り焼く、烤:焼く、焼:煮込む、拌:和える、などの単語と材料名を覚えればある程度の予想ができる。まあ、通常行く安食堂では目の前にある料理を指差すだけで済むのだがメニューを見るとこんな字を見ながらオーダーできる。カシュガルまでイスラム圏内を歩いていたので、久しぶりに豚肉を食べたかった。麺類と豚肉を頭の中でイメージ。汁でなく「拌」という単語に注目。「过油肉拌面」( 油豚麺)を注文。出てきた料理は下の写真のようなもの。具と麺が別の皿に分けてあり、ミートソース・スパゲッティーのような感覚で和えて食べる。ちなみにビールは「啤酒 」。お会計は全部で30元。レシートにはウイグル文字も表示されていた

今日は过油肉拌面啤酒を注文