どうして「飛行機を使わずに日本の家に帰宅してみよう」という気持ちになったのか、それは明確ではなかった。ただの思いつきだったかもしれない。
初めての海外旅行。バンコクへはインド旅行の帰りに足を伸ばしたに過ぎなかった。25歳の時だからかれこれ40年前になる。その後こちらで生活する知人もでき、僕に取ってタイは気軽に往来できる場所となった。30代、タイ・チェンライで10年生活したことも含めると日本とタイの往来はもう何度目だろう。記憶が曖昧になってきた。
昔、ビルの隅っこにある小さな旅行代理店で格安チケットを数日かけて購入した時代に比べ、今は飛行機便も多く、安価、そしてインターネットで即時チケット購入できる。国内線乗継ぎもスムーズ、朝チェンライを出発し、夕方には日本に到着する。
この「便利さ」の流れに逆らってみるのも面白いかもしれない。東南アジア、日本列島そして間にどんと構える中国大陸の地図を見るたびにその思いは増幅された。
2年前から再びタイ・チェンライに居を構え、農場もらしくなって来た。この町も自分のホームタウンになったような気がするし、気ぜわしい日本の家がすこし遠のいた気もする。
とはいえ、タイと日本の2つの家は、私の頭の中ではつながっている。地に足をつけない飛行機での旅では、2つは常に遠く離れた2つの点でしかない。白と黒はまったく別の色だが、灰色というグラジュエーションを通して徐々に変化し、やがては関連付けられていく。この2点を線としてつなげたいという意識がどこからとも目覚めてきた。
変化する自然風景や人々の生活を自分の目に焼き付け、変動するアジアを体感したい。時間と金はかかるが、元気なうちに一歩足を踏み出してみよう。旅の「目的」は、その後ゆっくり探ればいい。
4月21日 出発・旅の荷物
今年の乾期も終わりに近づき、農民たちは40度近い気温の中で、雨の到来を待っている。ゆっくりのんびりの旅といきたいが、いわゆる農民の僕も、再び雨が待っているタイに戻り、農作業のタイミングを合わせることも気にかかる。
出発4日前に突風で騒ぎ壊れた作業小屋の再生計画を終え、アクアポニックス用ポンプ・エアーレーションを作動させる新設ソーラーシステムの運転状況確認も終わり、大急ぎでバッグの詰め込み完了。1年ぶりの日本帰国に向かってバックパックを背負い、国際バスに乗車。メコン川を渡り、ラオスに入る。当初の予定より一日遅れの出発となった。
行き当たりばったり。どんな旅にするのかというイメージはここに至ってもまだ不明瞭。日本で体調を崩しているパートナーの様子も気にかかるし、今後の生活の方向性を話し合う機会も必要という思いから、のんびりと中国大陸をふらつくにも限度がある。
荷物は、着替え3日分、応急薬セット、洗面キット、水そして、パスポート・クレジットカード・スマホ。バッグの重さも含め5キロ。どうしても必要なものはすべて現地調達すれば良い。なるべく荷物は軽くすること。「必要なもの(Needs)」と「あったらいいもの(Wants)」を選別・実践できるようになったのは、2011年の「サンティアゴの道(El Camino)」からだ。フランスからピレネー山脈を越えてスペインのサンティアゴまで30日間900キロ歩いた旅。出発当初、10キロのバッグは、終点では7キロの重さとなっていた。旅の途中に読もうと思った本、最後はガイドブックまで捨てた。「昨日、今日、明日」使わないものは、「必要なもの」ではない。そうしないと一日30キロ以上連続で歩くことはできない。最初の一週間で私の肩や足が教えてくれた。荷物を持ちすぎると自由に歩けない。おそらく歩くことができなくことさえある。「おそらく人生もこんなもんだろう」ということを学んだ。お金も含めて余り持たないことが、心も身体も気軽にさせる。
サンティアゴの道で学んだもう一つの事は、「なんで歩いているのか楽しみながら考えること」。”旅行”ではない。”旅”は時としてつらいこともある。旅の理由、目的を一人じっくり考えることは、歩き続けるという肉体的、心理的苦痛から解放してくれる役割を持っていた。自問自答によって答えは出ないが、過去のおこない、決断、将来、人との関係が頭の中を駆け巡り、知らないうちに目的に向かって前進させる効果をもっていた。いつも思考の行き着くところは、「私はなぜ生きているのか、生かされているのか」という哲学的なところに突き当たる。深みにはまり込み、抜け出せないこともたまにはあったが、体を動かしながら考えることは肉体的なつらさを忘れさせた。知らないうちにまわりの景色が変わったり、新しい人との出会いは、案外ポジティブな結論を導き、楽しい作業だった。この経験が今回の帰国への旅にも影響していると思う。当然、この経験は、今持って私の人生の旅にも大きく影響を与えている。
出発の4月,タイ北部はPM2.5被害が特にひどく、健康被害に悩まされていた。ラオス,ファイサーイはチェンライよりもっとひどいヘイズだった。焼畑規制が政府・地方自治体で機能していないのだろうか。市街地近くの焼き畑まで火が放たれ,メコン川対岸のタイ側チェンコーンの町が見えなくなっている。雨が待ち遠しい。