toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅②=好奇心と自由な時間、スリーピングバッグを背負って=

 

 

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Hornbill Festival

インドへ旅立つ前に(つづき)

旅は計画が一番楽しい。どのようなルートで組むか。効率性も重要だが観光産業に踊らされてお金をかけることが全てでもない。なるべく住民に触れ合い、生活を見るのが良い。そのためには陸路が望ましい。時間はかかるがそれが経費節減にもつながる。飛び恥(Flygskam)という言葉も流行になってきた。とはいっても年齢のことも考えなければならない。

 夕方の農作業後、焼酎を呷りながら自前の夕食を終えたひととき。ウェブサイトを開きながら、学生のように遅くまで調べていた。実践的な先達者旅行記より、詳しい地域の歴史、さらに人類学的な資料、政治、宗教を少しずつ読み、地域の概略をイメージし始めた。日本語の資料が少なく英文の専門書にも目を通した。

 

 当初、ミャンマー側から入り、インド側に抜けようと左周りを考えていた。しかし、一つ問題が起きた。インドに陸路で入る場合、観光ビザを取得しておく必要がある。残念ながら事前にeVISAをインターネットで取得してもモレの国境で承認できないと言っている。つまり大使館に直接出向いてパスポートにスタンプするしか無い。ここからだと、バンコク、あるいはミャンマーマンダレーにあるインド大使館・領事館に出向くことになる。別途交通費や時間も必要。さらに出国飛行機チケットが提出要件となっている。出発前にやることがたくさん出てくる。そして旅の出口をあまりにも早く確定すると、出国の日程が目標となり、プロセスが霞んでくる。最後には線を引くことが優先され融通が効かなくなり、イライラした経験は何度もある。旅が終わったらまさに疲れが一気に出る。

 これまでの旅からいろいろ知恵を働かせ、出た結論は、「インドに空路で入国し、ミャンマーに抜け、さらに陸路を続け、ミャンマー・タイ国境の(ミヤワディー・メソット)チェックポイントを抜けるコース(右回り)がベスト」。自分ながらよく調べたな。納得。インドの国際空港では、ビザを持ってなくても、日本パスポート保持者にVisa On Arrivalを発給してくれる。つまり、カルカッタに空路で入れば、その場でビザが取れることが大使館Webサイトで判明した。ただ滞在中の資金を確認する手段として出国のフライト予約書類の提示が条件に書かれている。以前、世界を放浪しているヨーロッパの友人が、チケットをFlyDubaiという会社でWeb予約すると「指定期日までに後払い」という方法で予約書を先にメールで送ってくれるということを思い出した。さっそくWebサイトを確認すると、現在も可能。(期日まで支払わないと予約は消滅)。「インド到着前日に予約し、プリントアウトすればいいんだ」。計算式がわかった数学問題のように答えに近づく。残りは、インド入国となるカルカッタまでの安い飛行機便を予約すれば旅の入り口は確保できる。

 

 ナガランド州の州都コヒマで年一度開催される「ホーンビル・フェスティバル」は12月1日から10日まで。山岳少数民族の16部族が一同に集まり、伝統文化を紹介する。これに参加できることを優先順位の一番として、陸路の可能性を探した。地図を広げる。カルカッタから見ると、バングラデッシュを挟んだ北東にナガランドはある。英国植民地からインドが独立し、イスラム教のパキスタンが分離、中学校の地理で「パキスタンは国が東西に分離している」と習ったことが思い出される。その東パキスタンバングラとして分離、地図を詳細に見ないとインド東北部は切り離されたように見える。北をブータン、南をバングラに挟まれたコリドール(廊下)となるアッサムからつながる山岳地域にナガランドはある。さらに、この地は今から75年前、第2時世界大戦末期、連合軍の中国支援となる援蒋ルートを断ち切ろうと日本軍が爪痕を残した地域でもある。大量の戦死者(その多くは飢餓、病死と言われる)を出したいわゆる「インパール作戦」戦地。当時の戦略地図との現代のグーグルマップを重ねることによって、これから向かおうとするこの地への具体的なイメージが高まってきた。

 少数民族の人たちとの出会いを一番の目的としていたが、一方、インパールに関しても、昔の思い出が蘇り、気になって来た。35年前、タイ・ランプーンで暮らしていたインパール作戦残留旧日本兵の藤田松吉さんを手伝ってビルマ国境まで遺骨収集した思い出がある。「まだビルマ側の奥地に入れないから、タイ側で遺骨さがしているけど、あっちにはたくさん死んだ友がいる。彼らが夜、枕元に現れるんよ」。藤田さんの言葉が気になる。「一回、日本に帰国したことがあるが、時すでに遅く故郷でも歓迎されず、すぐタイに戻った。その後、居場所ない日本に帰ろうとは思わない。しかしビルマには行きたい」と言っていた藤田さん。10年前に亡くなられた。戦争という時代の渦に取り込まれ、そして異国の地で何を思い暮らしてきたのか。今回の旅は再び藤田さんが語ってくれた当時の様子をイメージする手がかりになるかもしれない。

 2016年9月、シベリアの旅を通して日本に帰ることができなかった抑留者の墓地を数カ所訪れた。父親の世代たちが過ごした「戦争」というキーワード。終戦から10年過ぎて生まれた僕が、生前の父からはこのことについて話してもらうことは無かった。おそらく苦い経験だっただろうが、経済成長の波に乗る日本で忙しく、過去の話はしたくなかったのだろう。私自身も60の峠を越え、残りの時間が限られてくるにつれて、日本社会の過去と今の私達と繋がっていることだけは、自分の中で少し整理したいと思う。この旅のもう一つの目的として浮上してきた。

 

 旅の準備をタイNGOの友人たちに話していると、また新しい情報が入ってきた。「アッサムにはタイヤイ族の流れを持った人たちがいる」、「チェンライにも住んでいるワ族もナガ族と繋がっている」、「お茶、稲作を通して雲南からタイ北部、ビルマ北部、アッサムは繋がっている」。どんどん関心が広がっていくが、「あれもこれもは、やっぱり無理だろう」。「それは次回の旅」とペンディングにする。

 しかし、仏教徒であるタイ友人の多くは、「是非、ブッダガヤに足を伸ばした方が良い」という。タイで暮らしていつも聞かれるのは、日本人だから仏教徒だろうと。これまで神道イスラムユダヤ、キリスト、アミニズムの国、地域で生活して、「宗教は何?」という質問の答えが出ない。宗教が一つという固定観念を持つのに少し抵抗がある。自分があるグループに入り、他グループを敵視したり、友達じゃないといった感情を持つことに不安を持っているからだろう。いつも言葉を濁している。確かに日本の我が家には浄土真宗の仏壇もある。来年は父親の13回忌もしなければならない。神棚もあるいい加減な仏教徒(?)だが、宗教としての仏教ではなく、哲学者としてのゴーダマ・シッタールタの生き方には興味ある。尊敬し、その実践は学びたい。年老いていく今後の自分へのなにかの手がかりになるだろう。「人が悩む普遍的な原因を知り、その中でどう生きる」という視点だ。死後世界のために得を積むことや世俗的な行事に、僕は興味が向かない。社会秩序を作り出す法として、そして組織維持のための宗教は必要だと思うが、まだその領域には至ってない。まわりを気にせず、自分を高めることに関心があるが、組織に入り群れて行動するのはどうも好きになれない。まだまだ若いのかもしれない。2562年前、ゴーダマ・シッタールタがどのようなところで「悟り」を開いたのか、やっぱり見てみたいという3番目の目的が湧いて出てきた。

 

 旅のキーワードは、山岳少数民族第二次世界大戦、そしてゴーダマ・シッタールタ(仏教)となった。たった2週間の旅ではやっぱり少し欲張り過ぎだろうか。

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