toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅③ Bodhgaya INDIA(Sorry only Japanese)

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ブッダが悟りを開いたと言われる場所にある菩提樹


2 ブッダガヤ アカ族修行僧に出逢う
 

 11月26日深夜、日付が変わってバンコクを出発した。2時間30分の旅。タイからインド大陸の西カルカッタまでは飛行機だとそれほど遠くない。深夜到着便、火曜日のチケットは安い。予想通りだ。自腹の旅では、サービスや飛行機会社を選べない。齢を重ねるにつれて人は贅沢、わがままになるようだが、バブル時代を日本で過ごさなかった僕はそんなことはどうでも良い。体力維持ができるレベルならノープロブレム。価格は約70ドル。その後ガヤ空港までの早朝の乗継便を含めて100ドルで飛べた。

 タイ人はインドに向かうにはビザが必要。バンコクドンムアン空港チェックインではパスポートを確認後、「ビザが無い」と言われる。日本人は到着ビザが取れると説明するが、「インド出国の予約便の書類を見せて」。待ってました。例のダミー予約書「12月9日発ボンベイ:ドバイ便」を見せるとスマホで撮影、笑顔で搭乗券を手渡してくれた。入国拒否の場合、搭乗させた航空会社の責任を入管から問われるののだろう。

 

 40年ぶりとなるカルカッタ。と言っても空港だけだが。空港のデザインは西欧風になり随分、曲線を使った現代建築。垢抜けたなーという印象。当初計画では、まずサダルストリートの安宿に宿泊し、インド独特の雰囲気に順応、ハウラー駅からブッダガヤまで鉄道でと考えていた。「よく考えてみろよ。アライバルビザ取得後、丑三つ時の空港から街への移動は、徹夜や膝の痛み、安全のことを考えるとエネルギー使うよ。無理しないほうがいい。」と自分の身体が言ってくるので従った。空港で待機し、朝一番の飛行機でガヤ空港まで飛ぶことに変更した。

 小型プロペラ機ATRから眼下にみるビハール州の農村は、収穫が終わり、露天干しの稲が水田の区画にきれいな幾何学模様を描いていた。空港で、やっとインドルピーを手にしてトゥクトゥクに乗る。久しぶりにインドらしい空気を吸いながら田舎道をブッダガヤのゲストハウスへ。牛の匂い、行き交う車に文句を言いながら自己主張する運転手。「なんか昔と変わらないなー」。到着したのは10時。早速、近くでカレーとチャパティ、睡眠が足りないのでシャワーをあびて夕方まで休憩。

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ガヤ空港に向かう僧侶たち。

 ブッダガヤは多くの人が知るように、仏陀が悟りを開いた場所、マハーボディ(大菩提寺)にある菩提樹の木の下だ。ウィキペディア「釈迦」を要約すると、

「出家した29歳から激しい修行行為を行った。断食思想の影響で食欲を抑制しても健康な身体と強い精神力があるとされるが、断食行為は心身を極度に消耗するのみであり、シッダールタの身体は骨と皮のみとなり、やせ細った肉体となっていた。しかし過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟ってシッダールタは苦行をやめた。その際、五人の沙門はシッダールタを堕落者と誹り、彼をおいてサールナートへ去った(中略)35歳のシッダールタは、ガヤー地区のほとりを流れるナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、体力を回復してピッパラ樹(菩提樹)の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となった(成道)」とある。

 ブッダガヤは小さな街だ。マハーボディー寺院を中心として、仏教関連遺跡、そして各国各教派の仏教寺院が多く点在する。仏教の大聖地であるがゆえ、各国のお寺は、修行やお参りにくる人々の宿舎兼大使館のような役目をする。また観光客相手に出店も賑わっている。まさに門前町。以前は、日本人の観光客も多かったらしいが、「最近はやっぱりタイ人が多い」そうだ。この街にいるだけで、アジアの仏教国の経済状況がひと目でわかる。「どこから来たの?」と英語で聞かれ、「Thailand」と答えると、すぐさま彼らはタイ語に切り替えた。

 中心部からすこし離れると、周辺は農村地帯。私が宿泊したゲストハウスも大きな通りから露地を入ったところにあったが、まだ周囲には水田が残っている。そしてナイランジャナー川を超えるとまさに農村。米の刈り取り、乾燥、そして乾期の野菜栽培を始めるために、多くの農民が働いていた。

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ブッダが沐浴したナイランジャヤナー川、乾期でほとんど干上がっている。

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乾燥させた稲を運び出す。ビハール農村にて

 3日間の滞在中、毎日、マハーボディー寺院に通った。毎日、ゲストハウスから2キロの距離を歩いて往復。2日目の朝5時に宿を出て、寺院へ。特に早朝は気持ちが良い。辺りは電灯の数も少なく、薄暗いが托鉢する各国の僧侶とすれ違い、寺院の内部も混雑しない。寺院の内周りは、五体投地をしながら回るチベットからの巡礼者も多い。寺院を静かに一周し、本殿の前で古い煉瓦構造建築様式を静かに眺めていたら、一人の修行僧が私の顔を覗き込みながら声を掛けてくる。「タイから来たのか?」。「いや日本人だけど」。タイ語で答えた。不思議そうな顔しながら彼は「私はタイから6ヶ月、ここにいるけど、タイ人じゃない」。「えっ?」という私の表情に、「山岳民族のアカ族だ」と答える。彼が私の顔を覗き込んだのは、私が通常持ち歩いているアカ族のショルダーバックに注目したからだと判明した。「アカ族じゃないけど、、、アカ族の友人は沢山いる」と続けた。その一人が今年、亡くなったアカ族の友人のアジュ。なんと、彼はアジュの甥だった。奇遇な出会い。それもインドで。

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アカ族僧と奇遇な出会い、マハーボディ寺院で

 「ちょっとここで待ってくれ、先にお勤めをするから。後で話がしたい」と言ってタクバート(托鉢)を始めた。本殿を一周して、再び戻って来た彼、アシンは、「なぜ、ここに来ているの?」と僕に質問。「ゴーダマ・シッタールタに興味あうから」と答え、今度はこの質問を彼に返した。タイの山岳民族の場合、宗教的にはキリスト教アニミズムタイ語ではピーと呼ばれる)で、仏教徒はほとんどいない。その原因の一つは、仏教が布教活動を行わないことが起因している。経済的に子供の教育負担のある親が、お寺に子供を預けるケースはあるが、教育期間が終わった子どもたちは、その後、仏門に入るケースは稀だ。一方、布教活動を行うキリスト教は村に同じ民族の宣教師を配置し、宗教活動だけでなく、経済的な支援も含め、多彩な支援活動を行っている。30年前ころまではアメリカ・ヨーロッパのミッショナリーが中心だったが、最近は台湾・韓国・香港などの宗派、教団も多く、複数の教会が一つの村に作られているところも多い。アジュはそんな中で、反キリスト教のリーダーでもあった。アカの文化はアニミズムであり、これを大事にしたいと考えていた。しかし、仏教徒ではなかった。アシンは、「タイのお寺にいるが、それはそれなりにいろいろ問題があるのよ」と話し始めた。どこの社会でも組織に入れば、世俗的なことに気をつかわなければならないのだろう。「ここに来て、もっと大きな視点から仏教を見てみたかった」 続けて、「ここでは、言葉も違うし、袈裟の色も顔の形も違う僧侶たちが集まる。修行をかさねて、ブッダの悟りを得たいと感じている。民族が違っても理解り合える」と言う。タイ社会の中にいるアカ族とという2者比較論ではなく、もう少し広い世界から自分を見てみたいという考え方は、確かにアジュの影響を受けているかなと感じた。そして、「今はバンコク周辺の寺にいるが、いずれ自分の村で僧となる」という抱負を語った。

 アカ族の人たちを仏門へ導きたいエネルギーを強く感じた。一方、僕は、「気合い入りすぎじゃないの」とも感じた。テーラワーダ仏教では、まず自分が悟りを開くことが一番、その実践を通して、社会に影響力を与えるように考えている。タイ人の多くが、山岳少数民族をまだまだ異民族異宗教に感じる社会をなんとかしたいと思う彼の気持ちはよく理解る。応援もしたい。口にはしなかったが、木が育つようにゆっくり時間を掛けて彼自身が修行を積んで大きくなることに集中した方がいいかなとは心の中で思った。あまり張り切りすぎると鋼鉄は折れやすいから。

 僕が陸路でビルマを通ってタイまで陸路で帰るという話をしたら大変興味を示した。「ひょっとしたら君たちの民族も、このインド・チベットから悠久の時を経て移動しているかも」。彼のDNAの中にそれが組み込まれているのかもと思った。一時間以上、本殿を見ながら話をしているうちに、太陽光線が寺院を徐々に照らし、刻々と変化するその色彩も楽しむことができた。誰かが仕向けたような出会い、彼とはまたチェンライで出逢う約束をした。(つづく)

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マハーボディ寺院(大菩提寺