toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅 (エルダーバックパッカー)  =好奇心と自由な時間、スリーピングバッグを背負って=

 

 

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Nagaland Kohima

1 インドへ旅立つ前に

2 ブッダガヤ      修行僧に出逢う

3 ヴァラナシ      喧騒そして聖なるガンガー

4 サルナート     国際仏教村でゆっくりと考える

5 列車の旅        アッサム、ナガランドへ

6 コヒマ①         少数民族、ホーンビルフェスティバル

7 コヒマ②          もう一つのインパール作戦

8 インパール①    ここまで来ていた日本軍

9 インパール②   人探し

10 アラカン山脈 インドーミヤンマー国境

11 カレーミョ       チン族の街

12 ミヤワディー   AH1号線

13 タイ帰国        旅を終えて

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1 インドへ旅立つ前に

 10万円に満たない年金で今の日本生活は難しいと思う。医療費、電気水道光熱費、通信費、交通費、各種税金、もろもろ毎月差し引かれると残らない。付き合いに縛られる社会。金銭的な余裕がなければ圧迫感、無意識のストレスも起きる。家に閉じこもりあまり考えず、余生を過ごすのに越したことはないが、どうもそれが得意でない。

 65歳。前期高齢者。2年半前からタイ北部の森林に居を構えた。ゆっくりとした時間を求め、無農薬無化学肥料、自給自足型の農業の真似事を始めている。ここタイの田舎も、昔に比べると経済発展は著しい。インフレ、物価高騰だが、まだまだ手の届く範疇にある。

 幸いにも青年期に寝食を共にしたタイ友人との人間関係は良好、相談相手として、この社会で生きていく有効なアドバイスがもらえる。インフラの整備によって衣食住、移動手段も一昔前より随分良くなった。他人には見えにくいかもしれないが、日本より物質的にも精神的にも豊かさを感じているのは確かだろう。残り少ない時間をつかって、近隣国へふらり気ままな旅もできる。

 

 3度目の雨季が終わろうとしている10月のタイ、農作業や生活にも経験値が蓄積され、時間的にも余裕を感じるようになってきていた。亜熱帯の自然環境にも慣れ、隣人との付き合い方もうまくなってきた。近くに住むタイ少数民族の隣人たちに留守をお願いして、一時の旅立ちの準備に入る。しかし、新天地では新参者。犬も魚、そして植物も生きている。お世話を丁寧にお願いする

 少数民族の人たちとの関わりは35年前から。以前は人里離れた山奥に住み、貧困や行政支援からも見放されていた。麻薬栽培や違法に国境を超え住み始める彼らは、タイ政府にとっては厄介者扱いで2級市民的な対応だった。しかし、僕は、鍬一つで土を起こし、火縄銃で猟、そして自然資源を有効活用した衣食住を通して「生きる」たくましさを見せてもらっていた。風貌、生活スタイルにどこか日本の昔を思い起こす。共通点を見出しては、ノスタルジーに浸っていた。僕も彼らもお互い不自由なタイ語社会での生活。その中で繰り広げられる緩やかな会話ができた。だから、彼らの近くで暮らすことはそれほど苦にならないし、またお世話になっている。

 山岳少数民族の多くは、中国雲南省ビルマ、あるいはラオスを通ってこのタイ北部に移り住んできた。しかしここ50年100年の話だ。3−4世代前のことでしかない。国家という枠組みが明確に形成され、奥地まで権力が影響を及ぼすようになり、政治・経済の変化に取り込まれ、時には戦いから逃れるために、あらたな自然と安心を求めて移動してきた。小さな集落・親族単位で。彼らの口伝の歴史は、シーサンパンナー(中国雲南省)を源する。「移動式焼き旗農業に頼り、定着農業がほとんど無かった」という前提に立てば、それ以前はどこに居たのだろう。それとも桃源郷といわれるシーサンパンナーあたりを長い時間をかけて循環するように移動していたのだろうか。鄙の地で多民族がモザイクのように交差する中で、組織力や防衛力を持たない民族は、自由に動き廻るのはそう容易ではなかったように思う。時には自然条件がかなり悪い場所に、時には外界から遠く離れた場所にも住んだことがあるのではないだろうか。残念ながら文字を持たない民族。記録は残されてない。

 

 タイの生活を始めて、僕は、暇があれば地図を拡げ、現在地・タイ北部から北方、東方、つまり日本に向かった地域を覗いていた。今年4月には、「陸路・海路のみ」で日本の実家に戻る旅もした。ラオスを通り抜け、北朝鮮国境から船に乗り、そして韓国を縦断し、下関に到着した。おかげで旅の大部分を占めた中国国内の地方都市。広大な土地に散らばる民族、文化を地形・地理系列の流れに沿って知ることができた。そして無意識に国家という枠組みで人々を捉えないようになった。

 地図の西方に眼を向けるようになったのは、近くにミヤンマーのワ族の娘さんが嫁いできたことからだった。この地域にも多くの少数民族が生活していることを忘れていた。民族闘争で未開放地域が多いことも起因した。ビルマの北部のシャン高原からアラカン山脈、インド・アッサム、とりわけナガランドという地名に釘付けになった。調べて行けば行くほど、これまでのインドといういうイメージが覆されていく。6年前、中国のウルムチで青い目の中国人の人たちに遭遇し中国のイメージは大きく変わった。ここナガランドもモンゴロイドのインド人が生活している。アーリア人でもドラヴィダ人でもない。

 「せっかくだから、自由な時間を使って西に向かってみろ。脚や膝が壊れる前に」。情報が溜まり始めた脳が好奇心を駆り立て、身体を急かす。移動のための環境条件も整い始めた。2010年から東北部6州では入域許可証(PAP)がなくても自由に動けるようになっていた。また昨年からインド・ビルマ国境、(モレ・タム)チェックポイントが外国人にもオープンした。さらにミャンマーの観光入国も日本人はビザ無しOKとなった。残念ながらシャン高原に関してはまだ外国人立入禁止区域が残っているが、タイから陸路でナガランドの人々と触れ合う可能性はそれほど難しくはない。彼らの生活を見てみたい。タイや雲南省にいる少数民族とつながりはあるのだろうか。若いときのように好奇心がどんどん湧いて来た。(つづく)