toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅⑨Assam INDIA (Sorry only Japanese)

 

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アッサム州立博物館

 アッサムを含む北東インドの7州を人々は、”Seven Sisters”と呼ぶ。この7州は、シリグリ回廊(最小幅32キロでネパール、ブータンバングラデッシュ、中国に挟まれている)を通って、いわゆるインド本土と繋がっており、地形的にも、経済的にも相互依存している。

 本土ではほとんど見られなかったモンゴロイドの顔つきの比率が北東部に向かうにしたがい、高くなる。ここアッサムのグワハティでは、まだアーリア人が多いが、所々で見かける。1割から2割はいるだろう。駅に到着した時も僕の顔を見て、外国人観光客とは見えなかったようなので、ぼられることもなく簡単にオートリキショーをシェアー(相乗り)できた。

 12時半のディマプール行き列車に乗るため、僕は駅近くのアッサム州立博物館に出かけた。アッサム州にも少数民族が沢山いる。その一つがタイヤイ族仏教徒。僕の今住んでいる家の周辺にも、ビルマ、中国から移住してきたこの民族の人たちがいる。その一部がアッサムにも住んでいるという情報を持っていた。「お茶」、「稲作」、「仏教」というキーワードで見たかった。アッサムは中国(雲南)とインドを繫げるとても重要な地理的位置にある。博物館展示物は、さまざまなセクションがある。碑文、彫刻、その他、自然史、芸術と工芸、人類学と民芸とそして武器が収集されている。 短い滞在ですこしでも理解を深めようと訪れた。

 時間は2時間しか無い。10時のオープンの30分前には到着したが、チケットブースはまだ閉まったまま。ゲートで待っていると、中に入ろうとする関係者が、立ち止まって僕の顔を見る。彼の顔もモンゴロイドだった。「博物館訪れたのですか?」「どこから来たの?」と聞いてくる。「稲やお茶、民俗に関する資料が見れたら」と返答すると、暑いから中に入りなさいと館内に招き入れてくれた。僕は、すかさず、「顔から判断すると貴方は、ナガ族ですか」という質問。「そうです」と答える。これからナガランド、マニプルに向かって行くことを話すとさらに話が弾み、初めてあった人とは思えないよう感じになってきた。

 

 実は、この旅にはひとつ別のミッションがあった。ブッダガヤに宿泊している時、僕の携帯に友人のTさんから連絡が入ってきた。

 『こんにちは!インドに到着ですね。ナガランドにおいでとのこと、ぜひ訪ねていただきたい先があります。1994年にアジア学院の学生でナガ族のアチャンとクキ族のトータンを受け入れたことがあります。とても仲のいい青年同士でしたが、最後の日にきいたら「自分たちは祖国に帰ると敵同士だ。部族間抗争で戦っている」とのこと。トータンはおじいさんが戦時中日本軍にガイドとして協力し、軍券で手当てをうけ、戦後日本軍に協力した裏切り者として殺されたと話して、その軍券をみせてくれました。アチャンはアジア学院滞在中にお付き合いをはじめた日本人の女性と結婚することになり、国に帰ってから結婚式をあげました。2人を知っているトータンは結婚式の招待状をもってアチャンの村を訪ねましたが、抗争の敵は村に入れられないと追い返された、と聞いています。さらに99年にアジア学院からトータンという姓の女性が研修生として来て、夫や子供を置いてここに来たが戦闘が激しくて家族が逃げているととても尋常ではいられない様子で話していました。アジア人らしいとても落ち着いた風格のある人で、94年に来た男性のトータンは甥にあたると話していました。抗争についてはホストファミリーに話すなとアジア 学院から言われているとも、言っていましたが、なんとか連絡を取る方法とか彼女としてはたすけを求めている様子でした。結局何もしてあげれませんでしたが。インターネットもなく情報もないのでそこで戦争をしていることなど知りませんでした。独立運動を妨害するインド政府の謀略であるとか、抗日運動の名残りであるとか、説明してもらいまいした。3人ともとてもいい人たちだったのでその後平和に過ごせていることを願うばかりです。特に男性のトータンは4歳だった末っ子の翔太が懐いてずっと一緒にいました。何か旅の途中で見聞きすることがあればぜひお知らせください』。

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クキ族の正装(ホーンビル・フェスティバルで)

 ナガ族といっても総称で、その中には沢山の民族がいる。その後のやり取りでわかったことはタンクル族のアチャン、もう一人はクキ族のトータンで、二人共、マニプル州出身であることが判明した。この情報で、「僕は探してみましょう」と返事をしてしまった。マニプル州の人口が240万人、おそらく州都のインパールには長くて2−3日しかいないにもかかわらず、「すこしいい加減な返事をした」と思ったが、ナガランドに行けば年一回行われる少数民族のフェスティバルに参加するので、そこに来た民族の人たちに聞けば案外、緒が見つかるかもと思っていた。タイの山岳少数民族の人たちと長く暮らした経験からいけば、ホーンビルのような大きな集まりには村の代表や取りまとめをやっている人が多い。職業や趣味でつながる都市文化と異なり、部族社会は村人の素性や遠い親族関係などをよく知っている。社会関係、人とのつながりの強さ時には資本となる。とりわけ、部族間抗争をしている地域ではこうした情報が一番重要となる。ましてや日本人が人を探しているといえば、半分面白さも加わって、口伝えに情報が集まってることを経験したことがある。

 博物館で出会った彼は、「私はタンクル・ナガ族」といった。僕の頭の中にこの民族の名前がインプットされ、血が流れ始めた。「インパールのアチャン」を探しているんだけど、突拍子もない話を口走った。彼は、「タンクル・ナガ族では『アチャン』は一般的な名前であまりにも多すぎる」と言った。他に何か情報は?と聞かれ、「日本に農業研修に行ったことがあり、日本人のお嫁さんをもらっているはずだ」と付け加えた。彼は、何か閃いたようだった。「ところでどうしてアチャンを探しているの?」と聞いてくる。それもそうだ。この地域はまだ部族間抗争やインドからの独立運動の火がくすぶっている。どこの馬の骨ともわからないさっき会ったばかりの外国人に信用は無い。僕は、自分の素性とこの旅の目的、そしてTさんが送ってくれたメッセンジャーの内容を英語で真剣に説明した。なんとか伝わったかなとため息を付いたら、彼は、携帯を取り出して電話し自分の民族語で話始めた。そして、「僕の従兄弟がマニプールにいる。日本人と結婚しているというキーワードがうまくヒットしているようだ。従兄弟が言うには、おそらく見つかるだろう」と電話を終えて説明してくれた。なんということだろう。このミッションが急速に展開し始めた。とはいうものの、実際にマニプルまでいかないとどうなるかわからない。だけど、こうした人のネットワークのかなり中心部にコンタクトしたことは確かだろう。さっそく、僕は彼の従兄弟の電話番号と名前を控え、お礼を言った。

 いけない。時計はすでに10時をかなり過ぎている。急がないと博物館展示が見れなくなると言って、彼の名前を聞いた。「私はここのディレクターだよ」。な、なんと彼はこの博物館館長、Y.S. Wunglengtonさんだった。少数民族でも館長になっている。インドの懐の深さを感じた。別れ際に彼は、「お茶と稲作の伝播において、アッサムの存在は重要だけど、残念ながら仏教は関係ない。仏教はヒマラヤの北を通った」とさきほどの僕がこの博物館に来た理由説明に対してコメントを付け加えた。

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アッサム州立博物館長と

 博物館の展示を見ながらも今日の出来事はなんだったのだろうと考えた。ブラマプトラ川は見れなかったけど、幸運が訪れた。やっぱり「旅」の醍醐味は、”人との出会い”だな、とつくづく感じた。醍醐味とは仏教の言葉で「物事の本当の面白さ、深い味わい」。醍醐はミルクが乳製品になったもの。つまりバター、ヨーグルト、チーズなどと学生の時に聞いたことがある。「旅」は、人と一緒に観光地を巡り、美味しいものを食べる「旅行」とは違うたのしさがある。