toyotaidの日記

林住期をタイで過ごしています。ここをベースとした旅を綴ります。

インド・ミヤンマー辺境への一人旅⑦ On the Train (Sorry only Japanese)

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ムガールサライ駅に3時間遅れで入ってきた北東急行列車

5 列車の旅 アッサムへ

 サルナートまでは巡礼の旅だった。これからこの旅の一番の目的地となる北東インドは、少数先住民族と出会いの場となる。ヴァラナシ近郊のムガールサライ駅からアッサムのカルマキヤ駅まで1082キロの行程。ニューデリーを朝6時過ぎに出発する”北東急行12506便”がこの駅を通過するするのは、夕方6時。アッサム到着は翌日夕方4時半、22時間の旅。僕は3時間前には駅の一時預かりにバッグを預け、駅周辺の散策。いつものようにターリー(カレー定食)を食べ、夜食、ウイスキーや列車内用のスリッパ等を市場で手に入れた。インドではスマートフォンを使って、列車の運行状況を把握することができる。駅構内ではほとんどのインド人がアプリを覗き込んでいる。便利になったもんだ。ブッダガヤからヴァラナシへも列車で移動したが、カルカッタを出発した列車は定刻通りにガヤ駅に滑り込んできた。インドは鉄道網はやっぱり庶民の足。「40年前に初めてカルカッタからプーリーまで列車に乗車した時と違い、IT技術も進み、かなり時間も正確になってきた」と感じていた。

 

 が、今回はそうでもないことが判明した。ニューデリーを出発した直後、列車はすでに1時間遅れとなっている。夕方には2時間遅れとな表示される。しかたなしに”列車の中で”と用意した焼き鳥やウイスキーを駅前公園で食べる。そしてこの駅に到着したのは午後9時、予定より3時間遅れ。ムガールサライ駅は、ニューデリーカルカッタの結ぶ幹線上の要処地点でひっきりなしに列車が入ってくる。どのプラットフォームに列車が入ってくるのかは、5分前ぐらいにアナウンスで知らされる。その度に人々は階段を昇り降りする。列車を待っている人にあっちだこっちだと言われ、僕も2回行ったり来たりした。昼にゲストハウスをチェックアウトして列車に乗るまでに6時間もかかり、疲れ切ってバックパックの重さが肩に食い込む感じがする。やっぱり年齢を感じる。空いた椅子に腰掛け、「まあ、寝台列車だから、ゆっくり休めば疲れも取れるだろう」と思っていた。

 

 20両編成の長い列車の寝台車両に乗り込むと、すでに満席。通路でも人が寝ている。なんとなく嫌な予感がする。人を踏まないようにゆっくり指定席まで行くと空きベッドがない。番号を間違えたかな。前後の寝台指定席を見るが、やっぱり空きがない。おそらく僕のものと思われるベットにはお母さんと2人の乳児がぐっすり寝ていた。さらにベッドの下のフロアーには4人の子供が折り重なるように横になっており、床もろとも占領されていた。そして通路には同じグループのお母さんが2人座って寝ていた。起きてきた一人のお母さんにチケットを見せて、「ここは僕のベットだけど」と英語で説明するがわかったかどうか心もとない。彼女はベットで寝ているお母さんを起こそうとするが、反応が悪い。これは困ったもんだ。と考える一方、僕がこのベットの権利を主張して無理やり横になることが出来ても、乳児、幼児たちはどうなるの。そんなスペースは車両内には無い。「まあ、車掌が来てから相談すればいいか」と思い、僕は荷物が置け、座わるためにベットの3分の1ほどスペースを空けてもらうようお願いした(?)。彼女らも自分たちの席でないことは認識しているようで、夜遅くなってあまり言い合ってもしかたがない。一つのベットを僕とインド人のお母さん、そして乳幼児二人で分け合う。彼女らが途中下車する朝4時まで、僕は寝台座席に座り、しかも中段ベットが頭を抑える状態で、寝ているのか寝ていないのかわからないまますごした。結局、車掌は朝まで来なかった。

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4等寝台車両(SL)の夜と昼。僕のベットはこの母子に占領されていた(右上)

 この長距離列車のクラス編成は、2A,3A,SLとなっていた。2Aとはエアコン2等車、3Aとはエアコン3等、SLはスリーパー(寝台)の意味となっている。僕はSL、つまり寝台の指定席を4日前に購入した。価格は765ルピー。日本円にすると1000円ちょっと。22時間列車に乗って、しかも千キロの行程。「安い。やっぱりインドの旅行は鉄道に限るなー」と列車に乗るまでは思っていた。ところがこれがとんでもない勘違いだったとわかる。2A,3Aは当然寝台車で、一部は内から鍵を閉められるコンパートメントやカーテンがついている。シーツも枕も用意してある。SLはそれよりランクが下の車両のエアコンなし。寝台とは名ばかり。昼は自由座席となっている。下段ベットの席に皆が自由に座っている。3人掛けに5人ぐらいが通常のようだ。夜は中段のベッドを開き、3段ベットになる仕掛けとなっている、シーツも枕もない。つまりSLは3等寝台より下の4等寝台車両と解釈したほうが良い。指定番号はベットが奪い合いにならないようにするための予約の仕組みにすぎない。あくまでも車両は自由席、と考えたほうが正しい。朝になって通路が歩けるようになり、車掌が来た。僕のチケットを確認しに来たが、周囲の人たちのチケット確認などいっさいしなかった。座席あるいは寝台の予約した人のみのチェック作業のようだった。ということは、無賃乗車も当然可能となる。

 僕の席がすでに埋まっていた最大の原因は、列車の到着が3時間遅れの夜9時だったことが原因する。車両は消灯され、睡眠モードに入っていた。定刻に到着すれば、ほとんどの人が起きており、中段ベットも降ろされてなかったはずだ。空いてると解釈された。登りにくい固定式の上段ベットの予約にしておけば、権利の主張がしやすかったかもしれないとその時に思った。それにしても、インド鉄道は、太っ腹だ。乗車券のみのお客や、場合によっては無賃乗車の人もカバーしている。広いインド大陸を移動するために、「鉄道は庶民の足」と言われる根拠かもしれない。

ヒンズー教カーストへの考え方が、こんなところで見えたような光景だった。車両格差がそれを物語っている。とにかくお金を持って自分の席を確実にしたいと主張する人は、エアコン車両に乗ること。自分の地位と快適さ、そして経済力を考慮してクラスを選ぶしかない。それが出来ない人はどんな状況でも受け入れる力を持ち、そこで発生するストレスに慣れてしまうことを求められる。

 チケット購入時、3A、2A乗車券は2倍,3倍の値段となっていた。貧乏性の僕は、「高い。そんな贅沢はしない方が良い」と思ってSLを購入したが、よく考えたら千円、二千円の違いだった。そして、快適な日本での交通機関に慣れてきった身体は、満杯状況の中で眠れるような精神力、忍耐力を持ち合わせないことを改めて感じた。

 アッサムのグワハティで1日過ごし、その後、ナガランドのディマプール駅に向けて、再び鉄道の旅となった。250キロ、約5時間の旅になるが、僕は迷わず、エアコンの座席指定車を選んだ。SLだと185ルピー。ACのこの座席列車は450ルピー。どうしてこれほど差があるのだろうか。しかし、列車に乗ってそれは決して高い運賃ではないと感じた。快適さというサービス料金だ。席はリクライニングシート。動き始めるとまずペットボトルが配られる。車両内は常に清掃されているし、便所もなんとか使える。そして、途中駅で停車するが、物売りが車内の中に入らないようにしている。腹も空きはじめ、これじゃ昼飯抜きだなと思っていた矢先、車両の中でカレーの匂いが漂い始めた。前の方で係員が食事を運んで来る姿が見えたが、自分の席に来るまで無料で配られているとは思わなかった。食事付き乗車券だった。飛行機もLCCばかりで最近は機内食も食べてないのに、食事サービスとは。マハラジャという単語がインドにはあるが、そんな気分に。「ベジタリアンかそうでないか」と聞いてくるからターリーの2種類ある。揺れが少ない車両、スプーンがセットされた車内食はスイーツまで付いている。ここまで食べたターリーの中では最高に美味しかっし、清潔感を感じた。

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エアコン2等座席指定車、食事付き

 バラナシからアッサムのへの旅、車窓から見えるの農村風景がネパールとブータンの間に挟まるシッキムへ北上、その後、列車は東方に折れる。バングラブータンに挟まれたアッサムに向かうに連れて、様子が変わってきた。水資源が豊富なのか、全体が緑っぽくなる。稲刈りが終わったほ場も大気内の水蒸気が多いのか朝もやがかかっている。アッサムに近づくに連れて、水田は茶園になっていった。標高が高くなく、熱帯でも育つアッサム茶だからこのような光景になるのだろうが、低緯度のタイでもこのような平野に広がる茶園を見たことがなく、しばらくは列車の窓に釘付けとなっていた。

 

 インドの生活は朝一杯のチャイから始まる。チャイとは、アッサム茶を鍋ややかんで煮出して、ミルクと砂糖を加えたもの。北インドの庶民的な飲み物。この飲み方は、植民地時代にインドで作られた紅茶のうち、良質のものが全て宗主国イギリスに送られ、インドの庶民には商品にならない紅茶のクズ葉だけが残された事によると言われている。僕も毎日、小さなカップに入れられた5ルピーのチャイにお世話になった。お茶の樹種は、東アジアとりわけ中国雲南省を中心とした中国茶とインドのアッサム茶(葉が大きい)に分けられる。製法によって同じ葉で紅茶でも緑茶でも作ることができるが、アッサム茶はおもに紅茶として利用された。濃厚な香りとコクがあるため、チャイのようにミルクティで利用されている。

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車窓から見るアッサム茶畑風景

 イギリス植民時代、インドのお茶の歴史には、ある少数民族の存在がある。中国雲南省ではチンポー族(景頗族:発音はすこしヤバイ)、ビルマではカチン族、そしてインドではジンポー族と呼ばれる彼らは、同一民族で言語風習が一致する。東インド会社のロバート・ブルースはアッサムに住んでいたジンポー族から自生していたお茶の木を見せられた。学問的に中国茶とは異なるアッサム茶として認められ、植民地の代表的な嗜好品としてロンドンに向かい、その名は世界に広がったと言われる。しかし、僕は、雲南省からアッサムまで繋がったこの民族のことがやっぱり気になる。場合によっては、民族と一緒に動いてきたお茶、またはその変種がたまたまアッサムで育ったのかもしれないと、長々とつづく車窓からの茶園を見ながら想像を膨らませた。